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もののあはれ


――
神を畏れることは知恵のはじめである
愚者は知恵と訓戒とを軽んじる

――


さて、わたしはここにはっきりと書き記しておくものである。

彼らが聞こうと聞くまいとわたしの言葉を語れ――

という命を下されたかつてのある者のように、哀歌と呻きと嘆きの言葉をもって...。


一年の計は元旦にありという格言には、この国の先祖たちの生きた知恵が込められている。

何事もことの始まりが肝要である――そんな元日の一日にあって、本年令和六年一月一日に能登地方を襲った巨大地震とは、けっして単なる自然災害の限りではない。

忘れっぽい、あまりに忘れっぽい大衆においては、あの年の始めの夕まぐれ、身と心と霊とに抱かせられた恐れや畏れは、もはやすでに雲散霧消してしまったであろうか。


それでも、耳のある者は聞くがいい。

日本国とは一見やさしくおだやかな海洋に囲まれた、はなはだ豊潤なる山川草木をいただく風土のようで、その実、どこまでも荒々しき地象気象のくり返される、どこまでも排他的なかんばせをした”地”なのである。

毎年のように村々や町々を強襲する地震や津波、颶風や沛雨、それらによってもらたされる激甚の被害のほどを見れば分かるように、長日月の患難苦難の内に培われ、かつ精錬された「もののあはれ」と「無常観」とによってこそ、この国の先祖たちは、この国の天地(あめつち)を支配する”ちはやぶる神々”と向き合い、彼らの前に膝をかがめ、

けっして畏敬を忘れることなく、時に抗い、時に戦い、そして敗れてはふたたび立ち上がり、なお敗れても復興と開拓にいそしみ、しかりしこうして、新しい命を継承し続けて来たのである。

この”地”を支配している者は人にあらず、目に見える人の世界ばかりでない、もうひとつの不可視の世界が存在しているのである――

長いあいだ、人の心に宿りしそのような畏敬の念、および民衆のあいだに存せし信仰こそが「もののあはれ」であり、「無常観」であった。

さりながら、日本史の恥部とも言うべき「戦後」と、その具象たる団塊の世代なる人塊をば構成する世にも醜(にく)き翁媼どもとは、そのような心の形を忘れてしまった。

忘れてしまった、いやむしろ、自ら望んで売り渡してしまった――だれに?

どこぞの罪深き大陸より、海を渡ってまかり越された、ひっきょう甘ったれた人間主義的イデオロギーか、強欲な、あまりに強欲な人間観、ないしは人生観、もしくは宗教観をひっさげた、むくつけき香具師(やし)どもにである。

いや、そんな純然たる悪党どものもたらしたカネ、ただカネによって魂を奪われて、二千年六百年以上もの日月を切れ目なく継承せられて来た心の形をば、ひさいだのであった。

だから、個人的な人生体験としてもここにはっきりと書き記しておくものであるが、戦後日本の団塊の世代であれ、どこぞの血塗られた大陸のベビーブーマー世代であれ、それに連なった阿呆の子らであれ、これら下賤の者どもほど、自らの肉親にはじまり、教育機関における教諭、大会社の重責を司る重役、企業家資本家資産家の徒、メディアを賑わす学者や文化人、革新あるいは保守を自称する為政者、はては向こう三軒両隣に住まう醜男醜女に至るまで、言葉を交わしていて下品で、下劣で、下衆な存在はいはしない。

理由などただひとつだけ、これら下賤の者どもは、かそけき「教養」の香りをさえ漂わしめるという事がないからである。


耳ある者は聞くがいい。

知恵のはじまりは神を畏れること――

この言葉のとおり、教養とは不可視の世界、不可視の力、不可視の存在をばその心に思うことに端を発するのであり、つまりは「もののあはれ」や「無常観」のことなのである。

そして、

愚者は知恵と訓戒とを軽んじる――

この言葉のとおり、そのような先人たちの知恵袋を、あるいは心の形を、海の向こうから忍び入った香具師どものちらつかせるカネと引き換えにして、自ら打ち捨ててしまった団塊の世代と、それに連なった痴呆の子らとは、ただひたぶるに無教養者と嘲笑せられ、近現代におけるもっとも卑しきうつけ者として歴史の教科書であげつらわれ、あげくのはてには、たかだか八十年あまりの己が生涯のために国を売り渡した国賊として断罪されるばかりでは、けっして済まされない。

もっともっとずっと恐ろしい、ずっと仮借なき災禍の数々が、彼らの身を襲うこととなる――

そして、彼らは、けっしてそれから逃れることができない。


耳のある者は聞くがいい。

幾年も経たずして、その下の町は亡びて、失くなってしまいました――

かつて、この国の”地”にも存在した業深き翁媼が、南の国からやって来た悪魔に”人魚”を売り渡し、そのために自ら災禍を差し招いて、ついには完全に滅びてしまった。

その哀歌と呻きと嘆きの物語とは、この時代の「戦後」の上に実現する。

令和六年一月一日の能登の巨大地震とは、滅びの警告であり、兆しであり、ラッパの調べであった。

悪辣非道の侵略者たちと、この八十年彼らに「人魚」を売り渡し続けて来たすべての愚者たちとは、ただの一人として逃れ得ることも、免れ得ることも、赦され得ることもなく、「亡びて失くなってしまいました」という裁きの運命を、まっしぐらに辿ることとなる。

ああ、災いだ、災いだ、

東西の洋と南北の空とを越えて忍び入り、欲にかられてこの国の”地”を汚し、なお穢さんとしてたばかる者たちとは…!

香具師よ、侵略者よ、滅びの子らよ、お前たちにはもはや弁解の余地はない。

お前たち一人一人とは、お前たちの奪ったもの、売り渡したものために命を落とす。

業深き、業深き翁媼よ、

日本国に恵まれし海と山川草木とは、けっして人間のものではなく、人間の世界のものでもない――ちはやぶる神々のための、畏るべき”聖き地”であったことを思い知るがいい、

かてて加えて、この国にもたらされ続ける災いとは、人間がしょせん獣(けもの)に過ぎないことをわきまえるための一方的な、あまりに一方的な”御怒り”であり――

が、それを思い知ったところで、お前たちはもはや手遅れである。

神に逆らう者は地から断たれ
欺く者はそこから引き抜かれる

この言葉のとおりに、お前たち一人一人の上に”成る”からである。


それゆえに、

災いだ、災いだ、

カネのため、物欲のため、可視の生活のために、不可視の心の形をひさいだ者たちとは。

お前たちはお前たち自身の言葉と、ふるまいと、人生それ自体とをもって、知恵と訓戒を軽んじて来たのである。

それゆえに、お前たちの死に様は、この国にあって、あの「イゼベルの女」のそれのようになる。

お前たちは死骸は、この”地”にあって、輪禍に遭って轢死した蝮の子のようになる。

お前たちの垂れ流す血を犬が舐め、裂かれたはらわたを狐狸が喰らう、踏み潰された脳ずいに鼠がたかり、飛び出した目玉を鴉が突つく。

そのまわりをかつてお前たちが惑わし、騙し、奪い、虐げた者たちが手を叩き、足を踏み鳴らしては、腹をかかえて笑いあげる。

あるいはただ、睥睨する。

そう、世にも不埒な翁媼であり、世にも外道な香具師たるお前たちが生前、わたしたちに対してそうしたように…!


災いだ、災いだ、

肉親であれ、恩師であれ、学者であれ、企業家資本家資産家であれ、向こう三軒両隣の醜男醜女であれ、なんであれ、

耳の無き者、人の命よりも重にして大なる知恵を求めぬ者、人ならぬ存在を思うことも、不可視の真善美を弁えることもない者とは。

カネが欲しいだけで、カネよりほかになにも欲しくない、カネの亡者たちとは。

「金、時間、健康、家族、友人」ばかりに血眼になって、そんなうたかたの繁栄と現し世の安寧と寝たいがために、戦後八十年、さながら海辺の砂のごとくこの国にはびこるだけはびこった、下等昆虫のごとき物欲の権化たちとは。

たかだか東京か大阪あたりの玩具のごとき都市文明や、ひっきょう無意味な数字の羅列たるにすぎない貨幣文明をば神のごとく信仰する、偶像礼拝の徒とは。

平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼し、外道な、あまりに外道な悪霊どもの渡来を推し進めた、浅薄千万の人間主義者たちとは。

グローバリズムだ、ダイバーシティだ、インバウンドだ、ワンヘルスだなどとたばかって、罪なき幼子をかどわかす隠然顕然の大組織と、無辜の命の生き血を啜る完全無欠の悪党の群れとは。


災いだ、災いだ、

神を知らず、神々を畏れず、人の心の深みを尋ねたこともないお前たちは、けっして逃がれられない。

逃がれ得ることも、免れ得ることも、赦され得ることもなく――完全かつ永遠かつ不可逆的に、滅び去ってゆく。

自ら犯した罪によって、ただひたぶるに裁かれてゆく。

はっきりと言っておく、能登の巨大地震がそうであったように、お前たちがこの国で罪なき人々の血を流し、その血をもって”地”を染め上げ、その骸の上で「安寧だ、太平だ」と騒ぎ立てながら飲み喰らい、祝い踊るその最中にあって、世にも恐るべき裁きと滅びの御手がくだされる。

お前たち舶来の悪霊どもと一体となって詐欺を働き、子供を誘拐し、数えきれない無辜の民を殺めた醜男醜女の塊りとは、黄泉のごとく割かれた底へ落と込まれ、鯨波のごとく押し寄せる濁流に飲み込まれ、そのようにして、”地”の面から一掃される。

お前たちの誇りであり、拠り所であったところの都市文明も貨幣文明も、お前たちがそれによって世界を支配したはずだった資本主義も共産主義も――そんな甘ったれた、あまりに甘ったれた猿の浅知恵なんぞ…!――けっしてお前たちを救わない。

そのときは、お前たちは自らを神としたのだから、お前たちの神にすがるがいい。が、お前たち自身の編み出した知恵と訓戒がお前たちを愚かにしたように、お前たちの金は神を買収できず、お前たちの力は神々を御しえず、お前たち宗教もお前たちを救わない。

カネで神を買収できず、力ずくで不可視の”地”を手に入れられず、さかしらな理屈で罪の赦しをも贖えなかったお前たちは、圧倒的な、あまりに圧倒的な、可視不可視の地象天象――それが神の裁きの御顔である…!――の御前にあって、生き残ることも、生き延びることも能わない。

もう一度、はっきりと言っておく、

お前たちは神を知らず、神々を畏れず、人の心の深みを尋ねたこともなく、そのようにして、知恵と訓戒を軽んずることによって、人々に詐欺を働き、心を盗み、命をまで奪い取ったのであるから、お前たちはお前たちの罪からけっして逃がれられない。

お前たちはお前たちの庭先に立てた木の上に吊るされて骸をさらすように、お前たちはお前たちの神によって欺かれ、裏切られ、見捨てられる。

傲慢な、あまりに傲慢なお前たちの神こそは貧困な、あまりに貧困な人間主義的人間観、人生観、宗教観をした、お前たち自身の精神である。

「滅びの器」の中に盛られるのが「滅びの子」であるように、「裁きの地」にこぞり集まる者もまた、「亡びの子」なのである。


だから、

耳ある者は聞け。

ひとたび久遠の時を知り、不可視の意志をともにする、可視不可視の地象天象が暴れ出せば、誰一人として生き残ることも、生き延びることも能わない、ただ――

ただ、「もののあはれ」を知り、「無常観」をその内に宿す者とは、ちはやぶる神の御前にかしこまり、かしずき、わきまえつつ命を守り、育み続けようとする不可視の心の形を持つ――

その不断の精神からつむぎ出される「祈り」によって、和解と、執り成しと、和めの祈りによって、裁きのそれではない、神の憐れみの顔をばふり仰ぐ。

神の憐れみの顔をばふり仰いだ者のみが、罪の赦しを得る。

神の慈しみの名前をば語り聞かされた者だけが、裁きと滅びの”地”から救われる。

神を知り、神から知られ、神々からも知られ、愛された者だけが、「もののあはれ」を知る、「憐れみの器」として、憐れまれるべき人々の身と心と霊を、その中に盛ることができるのである。


だから、

耳ある者は聞け。

耳の無い者、聞いても理解せず、見ても悟らず、心かたくなにして傲慢な者、己の知恵や力を神とみなす者とは、去ってゆけ。

そして、己に似つかわしい悲惨の末路を辿れ――

すなわち、いっぺんの憐れみもかけられることなく、その髪の毛一本すあら、この”地”に残らぬようにと、完全に、永遠に、徹底的に、不可逆的に、滅ぼし尽くされてしまえ。




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