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喜びの神殿 ②


――
第七の月になり、イスラエルの人々は自分たちの町にいたが、民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。
――


だから私は、今も昔も永遠に生きる”霊”によって、以下のように書くものである。

すなわち、

かつてのユダとイスラエルの人々もそうであったように、人は、永遠に生きる”霊”によらなければ、とうてい「神殿再建」なんか成し得る知恵もなければ、力もなく、よって、そのような大事業を継続させ、完遂させ得ることも、絶対にできはしなかった――と。

また、

木や石による地上の神殿でさえ、そうだった――あらゆる内憂外患による妨害や脅迫やによって、いくどとなく妨げられて来た――すればどうして、自分の人生における、不可視の神殿の再建をば成し遂げようとする者が、可視不可視を問わず、よりいっそうの「血」を流さずに済むであろうか――と。

たとえば、

「アルタクセルクセス王の第二十年に、わたしはユダの地の長官に任命されたが、その日から第三十二年までの十二年間、わたしも兄弟たちも長官の給与を一度も受け取らなかった。 わたしの前任者は民に重荷を負わせ、パンとぶどう酒に加えて、銀四十シェケルを徴収した。彼らの配下の者も民を圧迫した。しかし、わたしは神を畏れ、そのようなことを決して行わなかった

というふうに、ネヘミヤは書き残している。

この一節を読んだだけでも、分かる人には分かる。すなわち、ネヘミヤという一人の人間にとって、神殿の再建とは、まさにまさしく「自分の人生をかけた使命」であったということが。


私は何を言いたいのだろうか。

これまでも、もうなんどとなく言って来たことと同じである。

つまりは、神を信じることとは、どこぞの偽預言者たちののたまうように、「フリーギフトを受け取るだけ」の行為なんかではけっしてなく、この世でもっとも難しい行いである、ということだ。

もしも違うと反論する者がいるのならば、その者に向かってこう問おう。

それではお前はネヘミヤのように、たとえば十二年間も自分の勤めから受け取れたはずの給金を、受け取らないという事をしたことがあるのか――

あるいは、それに比肩しうるような、いかな犠牲を払って、お前はお前の人生において神を信じて来たのか――

もしも神を畏れるがそのために、ネヘミヤのしたような自己犠牲をお前もお前の人生においてわずかばかりでも行ったという事実があるのならば、それではいったいいずこから、「フリーギフトを受け取るだけ」といったアイディアが降って湧いてくるのか――

むしろ、神を信ずるためにかそけき犠牲を払ったことも、たった一滴の血を流したことも無いからこそ、「フリーギフト」などいう詐欺師のそれと寸毫変わらぬやり口をば思いつくのではないのか――と。


このように、

私は、わたしの神イエス・キリストからやれと言われたままに、たとえば「フリーギフトを受け取るだけ」というような完全無欠の大嘘をば、糾弾し続ける者である。

少なくとも、わたしの神イエス・キリストの父なる神からやれと言われて行った、私自身の不可視の神殿の再建工事とは、まさにまさしく、ネヘミヤの敢行したもののように、すべてを犠牲にするような「命をかけた事業」であったから。

であるからして、エズラやネヘミヤや私やがその人生をもって経験した「神を畏れる」行為とは、巷の教会に通いつめてアーメン垂れて、ハレルヤぶっこいていればそれでいいというような、はなはだ甘ったれた世界とは、まるでまるで次元の異なる話なのである。

エズラやネヘミヤやがくり返しくり返しいわれのない誹謗中傷にさらされ、脅迫され、命をつけ狙われるような日々を送ったように、

この私もまた、もうなんどとなく書いてきたことではあるが、神を信じ続けるために血反吐を吐き散らし、血涙を垂れ流す日々をば、強いられ続けて来た。

そして、それが傍目にいかに取るに足らない、月並みの人生経験であったとしても、そういう苦しくて苦しくてならなかった日々こそが、わたしの神イエス・キリストと私との「絆」を強め、深め、たしかなものとしてくれたのであり、そういうたしかな絆にこそ、父なる神は「信仰」という名を与えてくれたのであった。


その「信仰」によって、

たかが本にすぎない聖書を読むから、たかが文字の集まりにすぎない聖書の中に今も昔も息づいている、永遠の”霊”に感じることができるのである。

私は、「信仰」以外の方法で聖書を読んで、死者の中から復活したり、命を与える霊となったりする「イエス・キリスト」を知る道をひとつも知らず、「信仰」以外の手段で、ある日突然放り出されたようなこの人生を生き延びて、キリストを死者の中から復活させたりする憐れみ深い「父なる神」から知られる術も、ひとつとして知らない――はっきり言って、知りたくもない。

たとえお前の町に教会がひとつと無く、お前の家に聖書が一冊と無く、お前の側に神父だ牧師だ祭司だ宣教師だ伝道師だ信徒だクリスチャンだのいう人間がひとりとして居なくとも、

すなわち、この世界にユダヤ教だのキリスト教だのいういかなる集会、共同体の類が影も形も存在しなかった原初のその昔から、「神」は人に働きかけ、人は「信仰」によって、神を信じて来たのである。

「アブラハムが生まれる前から、わたしはある」とは、まさにまさしく、そういう意味であり、

「はじめに言(ことば)があった」というのもまた、それ以上のいかなる神の思いが込められているというのか――。

それゆえに、

「信仰」によって、ただただ「信仰」によって、

私はここにはっきりと言うものである。

石や木によって神殿の再建に成功したユダやイスラエルの人々が、またしても愚かな失敗を犯してしまったように、

この世のユダヤ教だのキリスト教だのいう世界とは、それよりもはるかに堕落した、腐敗した、どうしようもないほど愚かな結社たるに相違ない、と。


かつて、可視の神殿を再建したイスラエルの人々は、再建された神殿を前にして、定めの祭りを祝い、過去の罪を告白し、

「神の僕モーセによって授けられた神の律法に従って歩み、わたしたちの主、主の戒めと法と掟をすべて守り、実行することを誓い、確約する」という書面を作り、捺印を押しまでした。

すなわち、

わたしたちは、娘をこの地の民に嫁がせず、彼らの娘をわたしたちの息子の嫁にしない――

また、

わたしたちは、この地の民が安息日に商品をはじめ、いかなる種類の穀物を持って来て売ろうとしても、安息日と他の聖なる日には買わない――

また、

わたしたちは、地の産物の初物とすべての果実の初物を、毎年主の神殿にささげ、……地の産物の十分の一はレビ人のために納める――

などというふうに。

ところがどうして悲しいかな、

例によって例のごとく、ユダとイスラエルの人々とは、これら誓約をすべて破ることによって、「罪悪は積み重なって身の丈を越え、罪科は大きく天にまで達して」しまったのであった。

であるからして、

わたしの神イエス・キリストと父なる神に言えと言われたまま、はっきりと言っておく、

そのような体たらくは、過去の人々による愚かな失敗談というわけではけっしてなく、この時代におけるユダヤ教だキリスト教だのいう世界の手合いどもにおいて、まったく同じである――いや、よりいっそうヒドイものであると。

たとえば、

わたしたちは、娘をこの地の民に嫁がせず、彼らの娘をわたしたちの息子の嫁にしない――

このような言葉をもってして、彼らはいまだに、ある特定の人種民族血肉的な一致が重要なのだと、カンチガイしている。同様に、クリスチャン同士で結婚することは良いことで、そうでない結婚は望ましくないものだなどというふうに、本気で思い込んだりしている。

またたとえば、

わたしたちは、この地の民が安息日に商品をはじめ、いかなる種類の穀物を持って来て売ろうとしても、安息日と他の聖なる日には買わない――

という言葉をもってして、彼らは、いまだに週の七日目においてはいっさい労働してはいけないとか、娯楽にふけってはいけないとか、教会に行って礼拝しなければいけないとかいうふうに、狂信的に信じ込んでいる。

またたとえば、

わたしたちは、地の産物の初物とすべての果実の初物を、毎年主の神殿にささげ、……地の産物の十分の一はレビ人のために納める――

という言葉をもってして、彼らは、教会への献金をさながら納税のように義務付けては、「さもなくばさもありなん」的な恐れを人々の心に抱かしめる教義をこしらえて、その布教にこそ目を血走らせながら東奔西走をくり返している。

わたしの神イエス・キリストと父なる神に言えと言われたままにはっきりと言っておくが、

そんな思い込みは、「信仰」でもなんでもない。

そんな狂信によるいかなる行いも、信仰生活たりえず、いかなる清いものでも、聖なるものでもない――あるわけがない。

もちろん、

ユダヤ人同士でしか結婚できないという因習であるのならば、そうすればいい、クリスチャン同士でしか結婚したくないと思うのならば、そうしたらいい、週の第七日目に教会に行かねばならぬと思い込んでいるのならば大いにやったらいいし、その教会に毎月の給料の十分の一を収めることが良いことだと信じているのならば、いつもいつも言っていることだが、どうぞご勝手に。

私はそういう行いそのものについて、批判したり糾弾したりしようというのではない――そんな「お遊び」なんか、やりたきゃこの世の終わりまでやっていろ。

ただただ、

ただただ、

そんな「お遊び」の根拠は聖書にあるだの、それゆえにこれが信仰だの、これが救いだの、これがしるしだの、清い行いだの、聖なる生活だの、あげくのはてには、イエス・キリストの道だなどとのたまうのならば、

「ちげぇよ、ばーか」と、はっきりとはっきりと確言するまでである。

百歩譲って、「ばーか」というのが私の口悪だとしても、「ちげぇよ」というのは、わたしの神イエス・キリストの言葉である。もしもそうでないならば、どうか父なる神が幾重にも私を罰してくださいますように…!



つづく・・・



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