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無秩序なんか、「形」をあたえなくていい(※文学ってなんだ 9)

リアリティが無くても、許され、立派に存在していけるジャンルの小説など、「純文学」くらいじゃなかろうか。

あるいは、児童文学だろうか?

しかしながら、児童文学に、純文学が時たま描きたがるような、無秩序があっては、困るだろう。

無秩序へ、「言葉」ではなく、「器」を与えると、化け物のような「白鯨」となる。

ワケの分からんモノへ、「肉体」を与えると、悪魔のような「ヒースクリフ」となる。

――それはそれで、表現のやり方なんだろうが、踏襲するつもりはない。

そして、

これは文学でも芸術でもないが、

無秩序や混沌へ、「状況」を与えようとすると、ヒロシマ、ナガサキに投下された「原爆」となる。

なんという冒涜、なんという犯罪、なんという血ぬられた歴史であろうか。

こういう「状況」へ、「塩」をふろうとすると、「用水路の中をさかのぼっていく鰻の稚魚」の姿となる。

――しかし、これについても、踏襲するつもりはない。

もちろん、したければ、すればいい。

「器」でも、「肉体」でも、「状況」でも、なんでもいい、――無秩序や混沌に「形」を与えて、具現化できると思うのであれば、すればいい。

ただし、原爆のような「状況」の、現実的な具現化だけは、もう二度と、絶対にやめてほしい。

また、「ジョーカー」を映画化すると、現実世界においても、模倣犯による「犯罪」が起こったりするので、どうか気をつけて。


無秩序も、混沌も、ファンタジーではなく、たしかに、そこにある。

そこにあると分かっているのだから、わざわざ「具現化」する必要はない。

むしろ、ただおとなしくそこにあればいいものを、「悪さ」をしてくるし、「具現化」を求めてくるし、愚かにも人間の方でそうしてしまうからこそ、「塩」が必要になってしまうのだ。

それゆえに、純文学がまともに存在できるとしたら、「塩」があるからにほかならない。

しかし、それが「塩」だと、はっきりと分かってしまったら、それはもはや、「純文学」ではないような気がする。

「塩」味がキツイ。人工的な味でさえある。

それは、たぶん、「政治」や「宗教」である。


純文学ってなんだ?

本物の「塩」を追い求める、人間の心の軌跡である。


たぶんね・・・(笑)


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