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喜びの神殿 ③


――
それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もおろそかにしてはならないが。
――


「ばーか」な人々とは、かつての「神殿再建」がいったいなんのためであったのか、当時のユダやイスラエルの人々以上に、分かっていないのである。

「神殿」のなんたるかも分かっていなければ、「再建」を命じた神の真意も分かっていない――

とどのつまり、神の御心というやつが、皆目理解できていないのである。(当たり前である、だって己の人生にたしかに根づいた、ゆるぎなき信仰が無く、それによって文字(聖書)を読んでいないのだから…!)

理解できていないから、かつてのイスラエルの人々が、七十年に及んだ捕囚の日々に喘ぎ苦しんで、すっかりいじけてしまったルサンチマン根性を建て直すことのできなかったように、

彼らもまた、いつの時代にあっても、己の心の中に真の神殿を建設することも、再建することもできずにしまうのである。

同様に、

「神の僕モーセによって授けられた神の律法に従って歩み、わたしたちの主、主の戒めと法と掟をすべて守り、実行する」という、神の選民たるイスラエルとしての生き様の再構築ができなかったように、

イエス・キリストの道に生きるという信仰生活にも、
失敗し続けてしまうのである。


それでは、イエス・キリストの道とか、信仰生活とかいうものとは、いったいなんのことであろうか――?

永遠に生きる”霊”に感じながら、エズラ記やネヘミヤ記、ハガイ書やマラキ書のみならず、文字(聖書)を読んだ者として、はっきりと言っておくが、

まずもって、「神殿再建」の目的とは、敵に祖国を滅ぼされ、七十年も奴隷の軛の下に呻き嘆いていた人々の、「心の回復」にこそあった。

これを一言にして以って言うのならば、「神に立ち帰る」ことだった――可視の生活様式以上に、不可視の心の姿勢こそが。

このような当たり前な視点を持たぬままに、当時の預言書を読んだりすると、たとえば以下のような体たらくとなる。

すなわち、

「十分の一の献げ物をすべて倉に運び
わたしの家に食物があるようにせよ。
これによって、わたしを試してみよと
万軍の主は言われる。
必ず、わたしはあなたたちのために
天の窓を開き
祝福を限りなく注ぐであろう。」

というふうに、聖書には書かれています、だからあなたの教会に心からの献金を怠らなければ、必ずやあなたには神の祝福があることでしょう―――みたいな…。

こんな豚の寝言にも如かない妄言をば、「ちげぇよ、ばーか」と言わずして、ほかになんと言えばいいのだろうか。

はっきりと言っておく、

神殿再建と時を重ねるようにして書かれた預言書の一節をば、さながら切り花のごとく取り上げてみせながら、てめぇの結社に対する献金を促すための根拠とするなど、「ばーか」だけではけっして済まされない、人と神に対する大罪である。

そもそも、「倉」だの「わたしの家」だのいうものが、当時再建された神殿以上に、この時代のお前の教会の銀行口座のことであると、いったい誰がお前に向かって確言したというのか。その言葉を保証する者は誰か。お前の卒業した神学校の先生たちか? 按手を受けた長老たちか? その長老たちも代々信じ続けて来たお前の宗派専属の預言者や伝道師たちか? あるいはお前の教会を支えてくれる海辺の砂のような信者たちか? 

はっきりとはっきりと言っておく、

「しかし、あなたたちは言う
どのように立ち帰ればよいのか、と。
人は神を偽りうるか。
あなたたちはわたしを偽っていながら
どのようにあなたを偽っていますか、と言う。
それは、十分の一の献げ物と
献納物においてである。
あなたたちは、甚だしく呪われる。
あなたたちは民全体で、わたしを偽っている。

という言葉の方こそ、お前の教会に献金を促しているお前たち全体に向けて語られた、神の言葉である。

だからイエスはこれを翻訳して、

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。 このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。 先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。 蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」

と言ったのである。


もう一度はっきりと言っておく、

マラキ書の「これによって、わたしを試してみよ」とは、まずもって、当時の、神殿が再建されてもいっこうに心定まらず、「神はどのようにして我々を愛してくれたのか?」とか、「我々はどのように神を偽ったというのか?」などというふうに、日がな一日不平不満を漏らし続けていた「イスラエルの人々のルサンチマンなる心」に向けて語りかけられた言葉であった。

だから、それを踏まえぬままに「だからあなたの教会へ献金を…」をやるのは、神と人に対する偽りであり、大罪である。

同様に、

同じマラキ書の、「わたしは離婚を憎むとイスラエルの神、主は言われる」という言葉を切り取って、だから離婚届を出すことなく妻は夫に仕え、夫は妻を愛しましょうとか、

かてて加えて、

「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」という言葉を誤解し、「主はイスラエルの境を越えて大いなる方である」という真意を曲解したままに、民族再興の大義名分としたりするにいたっては、もはや「死に至る罪」でしかない。

そういういっさいは、イエス・キリストの道でもなければ、信仰生活でもなんでもない。

あるはずがない――なぜとならば、いちいち解説するのもばかばかしい限りであるが、たとえば「離婚を憎む」と言ったのは「イスラエルの神、主」であるというふうにはっきりと書かれており、それがゆえに、「離婚を憎む」とか「主があなたとあなたの若いときの妻との証人となられた」とかいうすべての言葉とは、アブラハムやモーセの時代から、神とイスラエルとの間にくり広げられて来た「歴史」について語っているからである。

だから、離婚を憎むとは、どこまでも「イスラエルの主なる神からいつまでも離れたままでいずに、立ち帰れ」という意味にほかならず、またこれこそが「わたしはヤコブ愛した…」にも、「十分の一の献げ物と献納物において…」にも通底する、どこまでもどこまでも、イスラエルの神の御心なのである。


ここまで言えば、イエス・キリストの道とか、信仰生活というもののなんであるか、おのずから見えて来るのではないか。

そう、神の御心を行うことにほかならない――それも、この終わりの時代にあっては、「聖書の神」や「イスラエルの神」ではなく、「イエス・キリストの父なる神」の御心をこそ…!

それでは、神の御心とはいったいなんであるのだろうか?

私はいまを、この時代を、この瞬間を生きる私に対する、イエス・キリストの父なる神の御心のなんであるのか、それを知っている。

ほかならぬこの身をもって、それを知っているからこそ、このようにして、「書け」と言われたことを書きつづけている

それゆえに、これまでもなんどもなんども言い続けていることであるが、「信仰」によらなければ、いまの、この時代の、この瞬間を生きようとする自分のための父なる神の御心のなんであるのか、人は聞き分けることもできなければ、聞き従うこともできないのである。


同じ「信仰」によって、エズラもネヘミヤも、かつて捕囚の身分として敵国の苦役の下で必死に生き延びようとする、イスラエルの民としての自分のための神の御心をば、”声”として聞き分けて、「神殿再建」に着手した。

「御覧のとおり、わたしたちは不幸の中であえいでいる。エルサレムは荒廃し、城門は焼け落ちたままだ。エルサレムの城壁を建て直そうではないか。そうすれば、もう恥ずかしいことはない

と言って、ユダの祭司にも、貴族にも、役人にも、そうでない人々にも、神への信頼や神の選民たる者の誇りを取り戻してもらいたいと考えた。

そのようにして、ふたたび、神の知恵と力によって守られたソロモンの時代のような平安と繁栄に、「帰りたい」と願ったのである。

さりながら、

ユダとイスラエルの人々とは、先述のとおり、「結婚」についても「安息日」についても「十一献物」についても、不誠実な民であった。

不誠実というよりも、むしろ、それらの法や掟に込められた神の御心が、分かっていなかった。

すなわち、結婚も安息日も十一献物も、イスラエルの神の真の目的とは、その当時の人々の肉的かつ霊的な「聖別」にあったことを、悟らなかった。

だから、

神殿再建を祝ったその日、いやしくも自分たちが行った事、

「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である

ここにこそ、聖別の目的も、神の御心のその真意もあったことに、気がつかなかったのである。



つづく・・・


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