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子よ、あなたの罪は赦される ①


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イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
――


このように、

「子よ、あなたの罪は赦される」とイエスが言った時、時の律法学者やファリサイ派の人々、すなわち主だったユダヤ人指導者たちは、心の中で「この男は神を冒涜している」というふうに考えた。

それはイエスが死に、復活してからもまったく同様で、「ユダヤから下って来た」ある人々は、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、お前たちは救われない」というふうに、イエスの弟子たちにむかって主張してはばからなかった。

それゆえに、

ここであらかじめはっきりと言っておくものだが、まさにまさしくこういう連中こそが、かつて額を寄せ合って策を練り、謀をめぐらせては二千年前の今日このごろ、イエスという名をした一人の無実の男を縄にかけ、最高法院まで引っ張って行き、何ら罪らしい罪を見出せなかった総督が釈放しようとするのも聞かずに十字架を背負わせ、その上へ架け、ついには殺してしまったのである。

またそして、

このような歴史上もっとも有名な犯罪の内に見出される”構図”であるが、それは今日ただいまに至ってまったく変わることを知らずにいる、この地上の抱え込んだ病理とも言うべき事象のひとつでもあるのである。

すなわち、「ユダヤ教から下って来た」生粋の人殺しはもとより、それらに加えて、「キリスト教の各宗派教義神学から派遣されて来た」生来の詐欺師と泥棒どもとが、まるで諸国を侵略するようにでもして、

「我々の宗派教義神学の慣習に従い、我々の教会でバプテスマを受け、我々とともに礼拝賛美奉仕献金の活動をくり返さなければ、あなたの罪は赦されたことにはならない」とくり返しては、その土地土地の無辜の民をあざむき、たばかり、かどわかして、何百年何千年と恥じることも悔いることも知らずにいるのである。

あまつさえ、

「イエス・キリスト」を言い広めるように見せかけながら、その実、自分たちの編みだした宗派教義神学の類を触れ散らかし、「それに従わなかったら…」と人々を脅し、恐れを抱かしめることよって、自ら「聖霊」を拒むばかりか、偽りの福音によって人々の前で「天の門を閉ざ」し、人々の生き血を吸い上げるようにして私腹を肥やす――

そして、もしも誰かが――たとえば、この私のような者が――その嘘と非と悪とをあげつらおうものならば……


だからもう一度、はっきりと言っておく、

私はいかなる人の知恵によらず、ただ「神の知恵」によって、次のひとつ事をこの身をもって教えられた。

すなわち、いつの時代にあっても、神の言葉を語って来た預言者たちとは、各時代の「主だったユダヤ人たち」によって迫害され、虐待され、あげくのはてにはそれを罪とも悪とも思われることなく、まるで虫けらのように殺害されて来た、

そして、「主だったユダヤ人たち」とは、その時代時代の「宗教」のことであり、「法」のことであり、「人のならわし」であり、「常識」であり、「集団心裡」であり、、すなわち「社会」そのもののことである、

それゆえに、神の言葉を託された預言者たちとは、そのようなシロモノとはいつの時代も「肌の合わない存在」なのであり、またそれゆえに、この時代の人間社会を形作っている「主だったユダヤ人」たちとは、イエスの弟子たちを殺めるべく用いられる”道具”であるのである、と。


であるからして、

私はこれまでも喉を嗄らして叫ぶようにして書いて来たように、これからもくり返しくり返し、くり返しくり返し書き表し、書き綴り、書き連ねていくことをけっしてやめない。

今日びの「主だったユダヤ人たち」とは、自覚認識見当識の有無を問わずして、かつて「モーセの慣習に従って…」という虚偽の主張に聞き従わず、むしろその非と悪と嘘の数々をいちいち暴き立てるイエスや、その弟子たちを手にかけるという犯罪に手を染めた手合いどもが、生き代わり死に代わり、手を変え品を変えて作り上げた、ユダヤ教キリスト教という血塗られた経済圏のことであり、

それはとりもなおさず、預言書に書き記された「バビロン」にほかならずして、

それゆえに、巷の街道にもうろうろしているユダヤ教キリスト教の各宗派教義神学の担い手どもとは、「イエス・キリストの福音」の伝道師でもなければ、「キリスト・イエスの名前」を知る預言者でもなく、「イエス・キリストの父なる神の言葉」を語り広めるようにという務めを委ねられた教師でもない、

それなのにあたかもそうであるが如くふるまい続けることによって、「イエス・キリストの霊」を授けられた人々を悩ませ、苦しめ、しまいには殺してしまうようにと天上の悪の霊から”汚れ仕事”を任された、実行犯たちなのであると――。


このように、私は三度、同じ事柄をくり返した。

三度もシツコクくり返したのは、それだけゆるぎなき確信を抱いた重要な主張であるからである。

そんなシツコイ主張の行きつく先とは、さらにもっと大切な終点にして、同時に始点でもあり、

しかして、その終点と始点、あるいは始点と終点とを書き表すことこそが、この文章の目的だからである。

どういう意味だろうか。

もう何度も種々の文章の中で書いて来たことだが、私はかつて神の憐れみを受け、この世のユダヤ教キリスト教というバビロンが、直接的にも間接的にも支配している血まみれの経済圏から、風に吹き飛ばされた青き果実のようにふり落とされた。

「バビロンは倒れた」という災いの預言に巻き込まれることがなきようにと、まだ右も左も分からない頃より神の知恵と信仰を与えられ、そのようにして、「離れ去れ、彼女から離れ去れ」という神の言葉をば、水を注ぐようにして”わたし”という「憐れみの器」の中へ注がれた。

その憐れみの言葉に聞き従って、私はそのとおり「彼女」なる宗教、社会、経済圏から肉的にも霊的にも離れ去り、ありうる限りの宗派教義神学の類から「足の塵を払い落とした」――それこそ「自らを聖別せよ」というキリストの言葉に聞き従って行った、まことの「聖別」である。

またそのようにしたからこそ、

私はわたしの神イエス・キリストの復活した霊によって、いちばん冒頭の言葉、すなわち「子よ、あなたの罪は赦された」を、ほかならぬこの地上を生きるこの身へ向かって、語りかけられるに至ったのである――これこそが、この地上において私の犯して来た数々の罪に対する「完全な赦し」であり、

また、死者の中から復活し、昇天し、永遠に生きる父なる神の御許から遣わすとイエスが約束した「聖霊」を、私の身において授かり得たという「イエス・キリストの福音」であり、

それゆえに、巷に転がっている教会なんぞの授ける「ガキの水遊びにも如かない偽りの洗礼」なんぞとは似ても似つかない、「キリストの洗礼」なのである。


だから、ここがもっとも重要な点になるのだが、

このように神は、自らそうしたいと思った人にこそ、神の知恵であるところの「信仰」を与える。

神が自らそうしたいと思えばこそ、その人を「憐れみの器」として「聖別」し、神の憐れみたる”言葉”を注ぎ込む。

神自らの憐れみの計画のために神自らが憐れんだからこそ、その人の「罪を赦し」、神が自ら進んでそうしたように、その人もまた自ら進んで神の”言葉”に聞き従うことができるようにと、神の憐れみの霊であり、神自身であるところの「聖霊」をその人に分け与えていく。

すべては、神自らが行うことであって、それはまた神とその人とのふたりぼっちの世界――それは神が誘う「荒野」である――において行われることであり、

そこにはいかなる他者の介在もなく、いかなる「人」による結社集会の慣習に従う必要もなく、ただひたぶるに、神が決めた神のやり方と神の時に則って、神自らが執り行う、神お手ずからの「洗礼」なのである。

もしも、私の言っていることが分からないのならば、まずはこのように、自らにむかって問いかけてみればいい、

罪を赦せる存在とは、「神」であるのか、「人」であるのか、と――




つづく・・・



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