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X(旧ツィッター)まとめ ②


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「…今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」
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2023.12.9
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以前にも書いたことがあるが、日本国憲法なる実利主義の極北ともいうべき駄文中の駄文において、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して...」といった、まさにまさしく噴飯モノとしか言い様のない妄想空想脳内花畑的「虚偽」と「詐欺」の一節が見出されるのであるが、

私がいつもいつも批判している、最近お隠れになられた某ノーベル賞エセ作家様などのオツムの中にあっては、「平和を愛する諸国民」様なる方々が、どうやらこの世界に立派に存在し、生き生きと活躍躍動されていたらしきものでありまして、かつ、そのような方々において表現される「公正と信義」なるものもまた、

どうやらこの現実世界において大変に鮮明かつ精確に表現されているものと、本気で思い込んでいられたようでありまして、あまつさえ、ご自分とそのお仲間連中こそが「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼する、世界市民としての日本人」の模範的人格者たりえたものと、声高に公言して恥もはばかりも

知らないエセ文化人として、終生ふるまい続けていられたようでございます。 まぁ、私のようなエセではない賢者からしてみたら、チンチンに産毛の生え揃うはるか以前から、そんないっさいがっさいが、さながらヘタな漫才でも見せられているがごとくに片腹痛く、これしきバカの首の上には、たしかにノーベル賞みたいな、

無価値にして毒性の冠がよくよくお似合いであるものと――そんな栄誉にせよ勲章にせよなんにせよ、文学作品の本質とは、なんのなんのなんの関係も無い「糞土」にすぎないものと、終生気づくことも悟ることもなきままに、それがゆえにあの程度の「文学もどき」の駄作群をば、よくぞ半世紀以上も書き続けられたものであると、

まったくもって、ちゃんちゃらおかしくておかしくて、いまだにもってたったいっぺんの憐れみを覚えることすら胸中に起ったためしというやつがないものである。 これはちょうど、肉の割礼をしるしだしるしだと誇っていた偽りのユダヤ人たちや、ガキの水遊びを救いだ救いだと触れ散らかしては、「バビロン」で人身売買にいそしんでいるような、

この世でもっとも罪深き偽預言者たちの体たらくと、まことによく似通っている――なかんずく、「嘘」や「欺き」やを血眼になって触れ散らかしているという、その劣等なる一点において。 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、 彼らの口は

のろいと苦い言葉とで満ちている」とは、まことによくぞ言ったものであり、かてて加えて、「彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。そして、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない」という言葉こそが、彼らによって体現される、まごうかたなき「現実」、

および、嘘偽りのない「事実」というものにほかならないのである。 それゆえに、損得勘定にしか興味のない実利主義者たちの編集した日本国憲法なんかにしたためられた冗文をば、毛沢東語録みたく額に押し頂くバカな行為とは、議論の余地なきバカの骨頂でしかなく、それと同様に、この世における信者の数を勝ち得たいがためだけに、

「くもの糸を織った」ように編み出されただけの宗派教義神学の類なんぞを、そうでないにも関わらず、あたかも「神の言葉」のように自他に向かって触れ散らかしては、その結果、ついには「神」と敵対する者となりはてて、「彼らの道には、破壊と悲惨と…」というふるまいに及ぶしか手立てをなくしてしまう――この当然と皮肉の結末こそが、「神の計らい」というものなのである。

それゆえに、エセではない、真の生者たる者よ、ただひたぶるに、「自分で食べて、自分で味わえ」。自分の人生は、自分食べて、自分で味わえ。たかだか大学を出て、国家の認証する資格だ免許だを与えられたからと言って、あるいは国際なんちゃらの授ける栄誉だ称号だのを獲得したからと言って、そんなものは、「人生の本質」とはまったくまったくまったく無関係な、「幼児の砂遊び」に如くものではない――

某古(いにしえ)の王たる者の、戦から戦に明け暮れて王国を統一してみたはいいものの、老年に至って「冷たいからだ」に苛まれ、夜な夜な処女の生肌を抱きながらもイジイジと、「もはや勃たたなくなったチンチン」のような夢も希望も失くした心を持て余したばかりの、げにみっともなきクソジジイ様でしか

ありえなかったという逸話とは、まことにまことに示唆に富んでおり、それゆえに「人がたとえ全世界を手に入れても己の命を失ったら何の得があろうか」とは、まことにまことに「キリストのひと言」と言えるのであり、またそれゆえに、ここで言われた「命」とはなんのことであるのか――どのようにしたら、

どこまでも愚かにして罪深く、物分かりも悪ければ心かたくなに生まれついた「たかが人間風情」たる者にあって、「命」を探し求め、見出し、掴み取り、あるいは与えられ得るというのか――。もしも、本当に知りたくば、ただ分かるようになるまでひたぶるに、自分で食べて、自分で味わえ――! 「叩けよ、さらば開かれん」とは

真実の言葉であり、「平和を愛する諸国民…」のごとき虚偽と欺きの言葉ではけっしてでない。 「命」が欲しければ、自分で探せ。 どうしても見つけたくば、見つかるまで、「荒野の旅」を続けたらいい。旅ができるのは、荒野に誘われた者だけであり、憐れまれる者とは、打たれた者だけである――

それゆえに、憐れみ深きわたしの神イエス・キリストから、言えと言われたまま言っておく、

「モーセの葬られた場所はどこか?」

そこに、「命」がある。

 ―― 聞く耳のある者は聞くがいい。――



2023.12.9
……
母国にあって生まれ落とされながら、思春期のすべてを異国において生きた経験から、はっきりと言えることのあるとするならば、人間の「教養」とか「修養」とかいうものとは、言語の種類を問わず、古典的な、あまりに古典的な「言葉」を聞くことから、やがて全身全霊をもって、習い覚えてゆくものである。

「信仰は聞くことから始まる」という言葉もあるように、古典的な、あまりに古典的なものを聞くことのなければ、いかなる者であっても、その時代時代の表層に現れたる「うたかた」みたいなものにのみ関心を示すような、軽佻浮薄な存在にしかなること能わず、そしてそのまま、終わりを迎える。もちろん、それは

それでひとつの立派な人生であり、人としての在り方であり、オレとワタシはたとえそうであってもどこの誰にもメーワクをかけることなく物を喰らい糞を作り続けて来たのであるから、どこのどなた様からもああだこうだと言われる筋合いの話ではない――というふうに、自他に向かって最後の最後まで主張し通せたのであれば、大変にオメデタキことである、

私はそんな「うたかたの80年」に向かって何をも言いたくなどないように、反対に、そんなものから何をも学び取りたくもない――たかがそれしきの、しょせんは「うたかた」の人間生活なんぞ、この地上のいかなる言語によって、いかに美々しく描かれていようとも、ただのひと文字でさえ読むにも聞くにも値しないから。

たとえ本当に、誰にもメーワクをかけることもなく、むしろ邂逅した人、した人のためにささやかな幸福をもたらし得たような「愛すべき人生」であったとしても、「うたかたの生活」には、記憶すべき「感動」の無いこともよくよく知っている。それでは、記憶すべき「感動」とは、いったいなんのことであるのだろうか――

それは「まごうかたなき真実」に触れたその時にこそ、人の上に訪れて、全身全霊を打ち震わせて、その人のそれまでの生き方を根幹から変えてしまうような――とても不思議で、ある意味においてはとてもとても恐ろしい、「出会い」のことである。 それゆえに、さっそく前言を自ら撤回するようであるが、そのような恐ろしい

「感動」は古典的な、あまりに古典的な世界でのみ起こり得る「邂逅」なのであろうか。もちろん、そうではない。さりながら、はっきりとはっきりと言っておくが、「まごうかたなき真実」はまた、表層ばかりを捉えている限りにおいは、それこそ永遠につらまえることなどできはしない。なぜとならば、

「不思議で恐ろしい真理」とは、いつの時代にあっても、まるで「永遠に生きている」がごとくに存在し、かつ生き生きと躍動し、そのようにして人に働きかけ、そのようにして人を「感動」させ、そのようにして人を根本から変わらしめ――というふうに、「自ら生きているもの」であるからである。

筆の巧拙は別にして、そのような「不思議」をなんとしてでもつらまえて、描き残そうとして来た人々の遺産こそが、いわゆる古典なのであって――中にはそうでないものもあるけれども――それゆえに、「古典的な、あまりに古典的な言葉」の方が、少なくとも、人としての教養とか修養とかいうものについて、

なんらかの示唆を与えてくれるものなのである。 それゆえに、たとえば我が国では「団塊の世代」と知られ、世界でもベビーブーマーなどという呼び名でもってしられる、第二次大戦後に大量生産された「うたかたの人塊」などからは、そのような古典的香りのほとんど漂って来るということがない――当たり前である、

彼らのような「誰にもメーワクをかけずに糞を作って来た」ことをのみ誇り散らかしているような無教養、無修養な人々の価値観とは、ひっきょう、「金、時間、健康、家族、友人」の限りに収容されてしまうからである。 それゆえに――おチンチンの皮の剥けるはるかな以前から、私がまるで名前を呼ばれるようにして

探し求められていた「不思議な感動」とは、はっきりとはっきりと言っておく、「金、時間、健康、家族、友人」以外の所柄において見出し得る、「永遠に生きているようなものとの出会い」のことである、と。 もちろん、それは違うと思うのならば、私はこんなところで、誰にも何をも押売りしてみせようというのではないのだから、

どこの馬の骨かも分からない私のような者の言うことなど、「聞かなければいい」だけの話である。 かく言う私もまた、各時代、各世界のもっとも尊敬すべき偉人ののたまった言葉であったとしても、「真実の感動」を与えないようなそれであったならば、ことごとく、ざれ言たわ言豚の寝言であるものと一笑に付し、

小便の一滴をもひっかけてやるひと手間をさえ惜しんで来た。 その反対に、その者の「みどりご」「ちのみご」のごとき者に過ぎなかったとしても、発する言葉の内にかそけき「不思議の香り」でも漂わせていようものならば、「金、時間、健康、家族、友人」のすべてをかなぐり捨ててでも、追いかけ、追いかけ、追いかけ続け、

その結果すべてを失っても、「笑っていることができた」というものである。 まるでアヘンでも吸わされて、頭がオカシくなったから「笑っていた」わけではない――いわゆる、「信仰と希望と愛」と、この三つの不思議の極みによって、全身全霊を捉えられ、魅せられていたからこそ感動し、感動し、感動していた

に違いないのである。 それゆえに、それゆえに――たしかに「自分で食べて、自分で味わった」ところとして、神の御前においてもはっきりとした声で確言できるひとつ事があるとしたらば、 かつて我が人生においても「金、時間、健康、家族、友人」がすべて揃っていた「うたかたの幸福」なんぞよりも、そんなすべてを失ってもなお、

「不思議な、あまりに不思議な感動」に満たされている今の日々の方が、ずっとずっと幸せであるし、
すべてを失ったその代わりに、「生きている、あまりに生きている真実」を手に入れた今から永遠にまで至り、けっして途切れる事のないこの喜びの方が、はるかにはるかに―――――

…いかに幸いなことか

主の教えを愛し
その教えを昼も夜も口ずさむ人
その人は流れのほとりに植えられた木
ときが巡り来れば実を結び
葉もしおれることがない
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす……



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