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風立ちぬ(※慈しみを惜しまれない神 ③)

風立ちぬ、いざ生きめやも  堀辰雄


インターネットで、小説もエッセイも「無料で」読める、幸福な時代を生きていると言える。

読めるだけでなく、表現することまで「無料で」できる、ほんとうにありがたい時代だとも言える。

さりながら、インターネットの世界は、混沌としている。
 
「自分の思った事を、考える事もなく口にする人間は、幼児か独裁者である」

という言葉に、先日、出会ったのであるが、――私にとって、ネット社会とは、言論の自由が追求された、もっとも民主主義的な空間というよりも、どちらかといえば、そのような混濁の世界である。

しかしそれは、「影」の部分である。
あえて、「光」の側面を強調するならば、例えば、このnoteのようなプラットフォームは、小学校の頃の、「読書感想文」の課題と似ている。

読書感想文とは、夏休みになると、決まって出された課題である。私は、この「風立ちぬ…」と題した文章を、そういう気持ちで書きたいと思っている。

こざかしいヨケイな知識も、わずかばかりのサマツな経験もなく、ただひたすら、読書が面白かった。自分の知らない世界の中を、想像力だけを頼りに、生きて行こうとしていた。そんなあの頃の、むさぼるような気持ちで書きたいと。…

ここ最近、一次、二次を問わず、インターネットに掲載されている、面白そうな小説を、息抜きに読むことにしていた。

玉石混交なので、本当に、色々なものがある。
中には、思わず目を見張ってしまうほど、素晴らしいダイヤの原石に出会うことがある。それは大変、幸福な体験である。

あまりに素晴らしかったので、その「ダイヤの原石」と、その媒体を介して、言葉を交わしてみた。そうせずにいられなかった。

顔も知らないし、名前も知らない。年齢も、性別も、職業も、どこに住んでいる人かも、いわば個人情報的なものは、いっさい分からない。

それでも、いや、だからこそというべきか、魂に直に触れ合うような、そんな会話ができた。ほんの、二、三回、メールを交わした程度にすぎなかったのだが。

で、つい先日の話であるが、その「ダイヤの原石」が、難病を患っている人であったことを知った。数年前に、あと5年で死ぬんだろうと、病院の中で、他人事のようにぼんやり思って、人間関係を整理し、恋人とも別れ、貯金もやめ・・・というような終活まで始めたそうである。

5年以上経った今も、「ダイヤの原石」のその方は、まだ生きている。

どうか、一日でも長く、健やかで…とは、言えない。その方は、たぶん、そんな言葉を、望んでなどいない。だから、言いたいけれど、胸の中で、祈りとしてしまっておきたい。

そもそも、そんな言葉を述べたいと思っている自分自身だって、「明日死ぬかもしれない」身の上ではないか。今、どんなに健康であろうが、仕事があろうが、お金があろうが、家族が側にいようが、――自分は大丈夫、自分はきっとまだ大丈夫だなどと、いったい、いつ、誰が、耳元でささやいたというのだろう…?

「ダイヤの原石」のその方は、後1年、後1年と思いながら、生きている。もしかしたら、今日で終わりかもしれない、と思いながら、生きている。

そういう感覚が、その方をそうさせるのか、あるいは、もともと、そういう方なのか、判然とはしかねるが、その方の書くものは、ただただ、「面白い」。

シリアスな小説であれ、コミカルな物語であれ、悲しく切ない小話であれ、センチメンタルな、少女趣味なモノであれ、なんであれ、「人の心を動かす力」を持って、書かれている。

なぜ、どうして、なにゆえに、そんな力があるのか。
生まれ持った才能か? 背中に死を張り付けながら、残された時間にあって何かを遺そうと、必死になっているからか?

そうかもしれないし、そうでないかもしれない。理由は分からないし、個人的には、理由なんかどうでもいい。

確実に言えることは、一次モノであれ、二次モノであれ、その方の心は、「登場人物に対する愛情」であふれているのである。

直接会話を交わしながら、一度も、創作理由を問うたこともないが、もし問えば、きっとこう答えるかもしれない。

「自分の書くお話の中の人物たちを、絶対に幸せにしてやりたい!」からだと。

あえて言ってしまえば、言えないこともない。
いかに「ダイヤの原石」とはいえ、多くの文章が、論理的な思索も、冷静な研究分析も不十分な上、直感と思い込みに任せて、書かれていると。多くの人から見ても、きっと芸術的でもなく、文学的でもなく、格式高いものでもないと。
 
しかしながら、もっと言えば、そんなあらゆる「客観的評価」が、いかにクダラナイ、ドーデモイイ、それこそがバカミタイな評価基準であると、本気で思わされるほど、「ダイヤの原石」には、巨大な「核」がある。

たとえば、「天空の城ラピュタ」も、深部に眠るばかでかい飛行石こそが、ラピュタの力の源であって、「上の城(にある金銀財宝など)はガラクタに過ぎない」ように。

いつか、時代は移り、世は変われども、「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れ」ども、神の「憐れみと慈しみ」はとこしえにあり続けるように。

「愛情」、「熱情」、「情熱」、「パッション」…呼び方など、なんだっていい。親が子にまみえて「絶対に幸せにしてやりたい!」と思う以上の、強い強い思いが、「ダイヤの原石」の物語には宿っている。

断言してもいいが、それが無ければ、いかなる天才的傑作も、不朽の名作も、畢生の大作も(文学に限らず、それがどんなにか素晴らしい大事業であったとしても)、命を持っていないのと同じである。時のニルヴァーナの中に溶かし込まれてしまえば、もはや思い出されることもなく、誰からも相手にされることのない、空な、へベルな、儚いだけの、ゴミのような何かである。

インターネットの時代は、まことに混沌としている。

「誰でも自由に表現ができる空間」こそ、ともすれば、おぞましい不可視の魔物がうろついている、危険な「森の中」である。

でも、そういう森の中にも、必ず、素晴らしい「出会い」がある。
嘘でも、美談でも、きれいごとでもなく、実際に私には、そのような出会いがあったのだから。

私は、これからも、ただ、それだけを信じたい。ただそれだけを信じて、書きつづけていきたい。

これは余談だが、皮肉屋で、シャイで、カッコつけで、不器用な神に向かって、どうしてもっと…と文句を言い続けていた夜に、そんな「出会い」が訪れた。

偶然か、あるいは、必然か。…

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