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【第2回】2人の僧侶が、ぶらぶら歩いて、ゆるゆる楽しむ ご旧跡 歩いて記た 板敷山大覚寺(茨城県石岡市)

来年、京都の西本願寺で「親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要」が勤められることを記念して、関東の地に残された宗祖・親鸞聖人の由緒を伝える「ご旧跡」を、令和の時代に昭和の香りを残すおじさん僧侶2人が巡ってみました。

現地ルポ


 常陸国の板敷山は山伏弁円(べんねん)が親鸞聖人を害しようとした場所として、聖人のご生涯を著した『親鸞伝絵(でんね)』の描写でも有名ですが、その弁円が聖人を待ち伏せしたとされるのが大覚寺です。

 県道140号沿いの参道入り口に大きな寺標が建っており、場所は間違えようがないでしょう。寺標から300mほど進むと山門に。境内には桂離宮を模して作られたという、石岡市指定名勝の庭園が広がっており、また本堂に上がるとご本尊・阿弥陀如来木像のほか、弁円が聖人に危害を加えようとしたことを悔いる弁円懺悔の像と、親鸞聖人御満足の像が並んで安置され、師弟の関係を今に伝えています。

 他にも境内には弁円の弟子たちに聖人が法を説いた「説法石」、寺標近くには聖人が大蛇を済度したという「人喰橋(ひとくらいばし)」など、当時を偲ぶ見どころは多くあります。
 

ご旧跡紹介


 大覚寺寺伝によると、後鳥羽上皇の第3皇子・正懐(まさかね)親王が比叡山で出家し周観大覚と名乗り、東国諸国を行脚していた折に結んだ草庵が大覚寺の興り。またその折、大覚は笠間の稲田草庵(いなだのそうあん)に親鸞聖人を訪ね、師弟のちぎりを結び、以後善性房鸞英(ぜんしょうぼうらんえい)と名乗る。善性房は聖人に随って聞法し、聖人のご教化を助け、後に二十四輩のひとりに数えられる。

 一方、常陸国楢原(現在の常陸大宮市)に道場があった山伏の頭領・播磨公(はりまのきみ)弁円は、災厄を払う法を修め、人々から崇敬されていたが、聖人の念仏のみ教えが広がると、修験道の法に頼む人々が少なくなった。

 弁円は怒り、聖人を恨み、ついに自らの弟子35人と共に、聖人に危害を加えようと、板敷山南麓の無住の庵で待ち伏せし、何日も聖人の行き帰りを窺ったが、出会うことができなかった。その時にいた無住の庵こそが、今の大覚寺であった。

旅ある記


藤「今回は大覚寺の板敷純雄(いたじきじゅんゆう)住職にお話を伺います」
板「ようこそおいでくださいました」
星「まず下調べをしていて思ったのは、親鸞聖人は1173( 承安3)年に京都でお生まれになり、大覚寺を開かれた周観大覚こと善性房も都の人。そして、親鸞聖人を害しようとした弁円こと明法房も摂関家の出という伝承もあり、このお三方が同時代に、京都から遠く離れた板敷山で交差したのが面白いなあと」
板「そうですね。出自に関しては、善性房も弁円さんに関しても諸説あるようですけれども、大覚寺には善性房は後鳥羽上皇の皇子と伝わっております」
藤「親鸞聖人は主に笠間の稲田草庵にいらっしゃったということですが、笠間から当時の常陸の国府であった石岡や、さらに南の霞ヶ浦に出るためには、今の県道ではダメだったのですか?」
板「昔の旧道は低地ではなく、山の尾根や中腹を通っていたんですね。谷は雨が降るとぬかるみますから。ですから山を隔てて往来がなかったわけではなく、昔は板敷峠を越える道が実際に使われていたんです。今ではその道はゴルフ場の敷地になっているようなところもあり通れませんけどね」
藤「なるほど。ゴルフをやれば通れるんですね」
星「藤本さん、まさかそこまで……」


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〒315-0101 石岡市大増3220
築地→(東京メトロ日比谷線・北千住方面・170円)→上野→(JR常磐線特急・普通・1520円)→羽鳥→(関鉄グリーンバス・板敷山前行・530円)→板敷山前
 

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※本記事は『築地本願寺新報』掲載の記事を転載したものです。本誌やバックナンバーをご覧になりたい方はこちらからどうぞ。


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