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思い通りにいかない人生を、どうやって思い通りにするべきか【築地本願寺宗務長が語る仏教との向き合い方④】

コロナ禍を経て、以前よりも不安や悩みを抱える人が増えています。そんななか、ビジネスマンから僧侶に転身し、多くの改革を進めてきたという築地本願寺の安永雄玄宗務長は、「こうした時代だからこそ、宗教という“ 世界観 ”が必要」だと語ります。

第4回となる今回は、思い通りにならない人生において、仏教をどう活用すればよいのか。また、安永宗務長自身が大切にしている信念などについて伺いました。

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まずは、「人生とは思い通りにならないもの」だと受け入れよう

――「“宗教”という世界観が人生を救うことがある」というお話がありました。では、「人生が苦しい」「生きるのがつらい」と思ったとき、宗教をどう取り入れるべきでしょうか。

安永 人生とは、思い通りにならない中で、どうやって自分の思い通りにするかを考えるゲームのようなものだと私は思っています。なぜなら、人は人生でなんらかの試練に遭遇したとき、ほとんどのケースは思い通りにはなりません。

世の中には「理想も描いて、『絶対やる』という信念を持てば、必ず実現します」という成功哲学もあるけど、ほとんどはうまく行かない。また、はたから見れば、どんなに思い通りの人生を歩んでいるように見える人でも、思い通りになってない部分はたくさんあるわけです。

――なぜ、思い通りにならないのでしょうか?

安永 どんな世界でも、何かをうまくやろうとすればするほど、反対の作用が働くからです。たとえば、先ほどの素粒子の世界では、陽子が存在すると、必ず反陽子が存在して、お互いが相殺しあう。ただ、たまに“揺らぎ”が生じて、完全に相殺できないこともある。宇宙の初期に起こった宇宙の大膨張・インフレーションは、この揺らぎが重なった結果であるという説もあります。

つらいときほど、「自分を俯瞰してみること」が大切

――確かに「うまくやろうとしても、うまくいかないのが当たり前」と知っているほうが、失敗したときのショックは少ないかもしれません。

安永 そうです。人生100年時代と言われますが、多くの人は、その人生のなかで思うようにならないことだらけだと思います。そんなときは、「いま苦労しているのは、そういう時期なんだろう。ちょっとおとなしくしておくか」と俯瞰して考えればいいわけです。

――苦労したり、失敗しても、それは仕方ない……と。

安永 大切なのは、「うまくいく自分も、うまくいかない自分も、同じ自分なんだ」と思って、受け止めることですよね。「辛い」と思ったとき、多くの場合は、「もっと頑張らなきゃ」という声と「頑張らなくてもいいよ」という声の両方が生まれます。その間で矛盾が生じるから、混乱してしまうんですね。

――たしかに、「頑張りたいけれども、気力がなくて頑張れない」というケースは多いですよね。

安永 浄土真宗の世界観では、頑張る自分も頑張れない自分もどちらも存在していいんです。浄土真宗とは、「仏さまという存在は、あなたが頑張っても頑張っていなくても、どちらであってもちゃんと受け入れてくださるんだ」というものですから。そして、そのことを知っておくだけで、仮に「こんなに苦労するなら、いっそ死んでしまいたい」と思ったとしても、ある時、その“世界観”が頭に蘇ってきて、ふと「そうか、いま私は『死んじゃいたい』と思っているけど、そういう時もあるよね」と俯瞰できるようになる。宗教って、そういうものじゃないかな、と僕は思っています。

「頑張れなくてもいい」という世界観を知っておくだけで、救われるときがある

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――ここまでお話を聞いてきて、「仏さまがすべて救ってくれる」と信じるのが仏教なのだと思っていましたが、「昔から伝わってきている、生きやすい考え方を世の中に提示する」という側面も大きいのだなと感じました。

安永 「神さま仏さまを信じない」という人がいる時代です。そんな時代に「阿弥陀さまがすべてを救ってくださるから、南無阿弥陀仏の念仏を大切にしましょう」と言っても聞く耳を持たないと思いますから。

ただ、「自分が頑張れなくても、頑張っても、どちらでもいいんです」という“世界観”を知っておくだけで、あるとき、それがコツンと自分に跳ね返ってくることがあるんです。そこではじめて、「あぁ、仏さまの光が届いていたんだ」と、心の底から納得できるのだと思います。

「努力しない」のと「他力本願」は違うと思う

――浄土真宗といえば「他力本願」という言葉が有名です。これは、「他人任せ」という意味で使われがちですが、本来は、「すべての人を救おうとする阿弥陀さまの本願(願い)があるから、誰もが救われる」という意味なのだそうですね。でも、この教えに従うと、「努力しなくてもいい」と考える人が増えるのではないか……と思ってしまうのですが。

安永 本当の「他力」を理解するのは、実は結構難しいんです。親鸞聖人がおっしゃっている「他力」とは、自分がお浄土に行って、仏さまにならせていただく。すなわち、成仏できるという意味です。つまり、あくまで成仏して、悟りを開けるかどうかという時の話であって、この世で生きているときに努力しなくてもいいという話ではないんです。

――自助努力を否定しているわけではない、と。

安永 以前、龍谷大学の名誉教授で、内藤知康という偉い先生にその話をしたら、内藤先生からも、「安永さん、それは正しいです。仏になるときに自力で行くか他力で行くか問われるわけで、普段の生活は自力も必要なんです」と彼も言っていました。

実際「自助努力はいらない」と思ってしまえば、教えは廃れてしまうと僕は思います。こうした考えに一石を投じたのが、いまの浄土真宗本願寺派のトップであるご門主さまがお話した「念仏者の生き方」というご親教(ご法話)です。この中で、ご門主様は、できる限り自分の煩悩を克服する生き方が必要だと説かれています。その生き方を実践するためには、欲を少なくして足ることを知る「少欲知足(しょうよくちそく)」や、穏やかな顔と優しい言葉で接する「和顔愛語(わげんあいご)」などが必要になってくるのだと、おっしゃっています。

人生の座右の銘は「一日一生」

――安永宗務長ご自身が大切にされている人生の物語や、座右の銘があれば、教えてください。

安永 最近、よく言っているのは、「一日一生」です。これは、言葉の表面的な意味では、一日が一生であるかのように生きなさいという意味です。特に、こうした先行き不安な時代は、年齢に関係なく、いつ自分に死の順番が回ってくるかわかりません。大自然災害や交通事故に遭うこともあるし、昨日まで元気だった人が、病気で突然亡くなることもある。

――一生がいつ終わってしまうかは、誰にもわかりませんね。

安永 昨日、たまたま僕の知人が61歳で亡くなりました。数年前からガンだと告知を受けていたので、この人の場合は、ある程度、死を覚悟をして、毎日を一生懸命生きていたんだろうと思うんです。ただ、多くの人は、いつ死が訪れるかはわからない。誰の元にも、死はいつか必ず訪れる。でも、だからといって、不安に陥って、「事故に遭いたくないから」といって外出を一切やめれば安全かというと、決してそんなことはありません。

――そうですね。運動不足になりそうですし、仕事や買い物ができないと、生活自体が成り立たなくなってしまいますしね。

安永 だから、僕の場合は、割り切るようにしています。「ダメならダメで仕方がない。最悪は、死ねばいいだけだ」って。ただ、いつ死ぬかわからないと割り切った上で、今日やろうと思ったことは全部やってから死のうと考えているんです。明日はないと思ってやっているから、その日やるべきことや言うべきことは、先延ばしにせず、最大限やるようにしています。

実は親鸞聖人は、自我が強い人物だった?

――「一日一生」という生き方は、非常にストイックですよね。途中で、疲れてしまったり、途中で気力が続かなくなってしまうことはないのでしょうか? 

安永 逆に言うと、僕が「一日一生」って言っているのは、僕自身がズボラで、なかなかそれができないから、自分に言い聞かせ、あえて追い込んでいる面もあるんです。たとえば、いつも「謙虚で素直じゃなきゃいけない」という信条を持っている人は、大体、自分が強欲で傲慢なんですよ。

それでいくと、親鸞聖人が「利他(自分の利益よりも他人の利益を優先すること)」とおっしゃるのは、逆に「自我」の心が大きいから、バランスを取ろうとされている面もあるのではないかと思うんです。

僕は書道が得意ではないのですが、親鸞聖人の字を見ると、すごく癖があって、自我に満ち溢れているとさえ感じます。だから、親鸞聖人が「仏さまにすべてをお任せする」というのは、逆に言うと、「すべてをお任せせざるを得ないほど、自我が肥大していた自覚があるからこそ、『利他』を強調されているのではないか」という解釈もできる。

――なるほど。自分自身のコンプレックスとなる部分に向き合った末に、生まれた考えなのですね。

安永 ただ、浄土真宗のおもしろいところは、親鸞聖人は、ご自身が煩悩に満ち溢れていることを認めた上で、自分の煩悩と向き合っておられるところです。これまでの歴史上のお坊さんの多くは、自我を抑圧しているので、自分の煩悩について語っていません。親鸞聖人は、より人間らしい自我と向き合っておられるからこそ、その教えが多くの人の心を打つのだと思います。

親鸞聖人像2

親鸞聖人立像

――仰る通り、人の苦悩が一番わかるのは、より多くの苦悩を体験している人なのかもしれません。

安永 最近は、僕自身がビジネスマンから僧侶へとキャリアチェンジした経緯そのものが、現代人の迷える心の軌跡そのものなんだろうなと思うようになりました。自分自身が経験してきた生き方を通じて、かつての自分と同じように迷えるより多くの方が、不安や孤独から抜け出せるようなお手伝いをしたいと考えています。


※安永宗務長が語る「築地本願寺宗務長が語る仏教との向き合い方」は、以下のリンクからご覧いただけます。

第1回 愛読書はユング心理学。銀行員から転身した僧侶のカルチャー遍歴とは

第2回 銀行マンが、僧侶の道を選んだわけ

第3回『思考は現実化する』にも通じる、多くの人が仏教を必要とする理由