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『思考は現実化する』にも通じる、多くの人が仏教を必要とする理由【築地本願寺宗務長が語る仏教との向き合い方③】


コロナ禍を経て、以前よりも不安や悩みを抱える人が増えています。

そんななか、ビジネスマンから僧侶に転身したという築地本願寺の安永雄玄宗務長は、「こうした時代だからこそ、宗教という“世界観”が必要」だと語ります。

第3回目となる今回は、この一億総不安時代に仏教がどんな役割を果たすのか。また、仏教を一般の人が取り入れるにはどうしたらよいのかを聞きました。

なぜ、今の時代に宗教が人々を支えるのか

――若い世代を中心に、「宗教は役に立たないから関係ない」と考えている人は多いと思います。現代人にとって、宗教はどんな役割を果たせると思いますか?

安永 「宗教の持つ世界観が、時に人々を支える存在になりえる」のだと僕は思っています。近年は自己啓発に関するビジネス本が増えていますが、タイトルを見ていると「どんなときでも落ち込まない本」「弱い自分を支える本」というように自分の気持ちを支えたり、リカバリーさせるものが多数あります。

また、ビジネス本の古典と言われるナポレオン・ヒルの『思考は現実化する』やデール・カーネギーの『人を動かす』などに通じる思想は、実は鎌倉時代の随筆家である吉田兼好の『徒然草』に書かれてあるような思想と共通している。非常にシンプルで普遍的なものが多いんです。

思考

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――鎌倉時代の人が考えていたことと、現代人が考えていることは、非常に近しいということですね。

安永 そうです。そして、今の時代に人々が欲しているこうした人生哲学と宗教には、意外と共通項が多いんです。書いた人や話した人によって、文章や見出しの付け方は違うけれども、人が生きていく上で頼るべき普遍的な真理が存在する証明ではないでしょうか。

おそらく、この真理とは、人類の有史以前、すなわち言葉のなかった時代から存在するもので、人が長い人生を生き抜くための心の支えであったと思います。たとえば、死の恐怖を克服するため、「輝かしい死後の世界がある」と考えるのもそうでしょう。「死後の世界」は誰にもわからないので、客観的事実ではなく、イメージが作り出した世界に過ぎません。でも、その世界観があるから、心は支えられる。こうしたものの積み重ねが、宗教の原型だろうと僕は思っています。

科学全盛のこの時代でも、誰しもが「自分の信条」を持っている

――ほとんどのものが科学的に実証されている今の時代であっても、宗教の世界観が心の支えとなることがあるのでしょうか?

安永 現代においても、一見、原因と結果が明確なように見えて、それでもなぜ起こるかわからないことが山ほどあります。また、その時は、自分はこういう意志で行動したと思っていても10年、20年経ってみると「当時はそう思い込んでいたけれども、実はまったく違ったな」と新たな視点が浮かび上がることもある。

つまり、その時は自分が現実、真実だと思ったことがあっても、それはその時の解釈に過ぎません。こうした不確かなものの上で、人間は人生を送っています。だからこそ、多くの人は自分自身が納得して受け入れられる信条やルールを持っているのだと思います。

――それは、誰でも持っているものでしょうか?

安永 「自分はそんな信条やルールを持って生きていない」と考える人も多いでしょう。でも、誰もが必ずなんらかの「原因と結果が納得できる信条」にすがって生きていることは間違いないです。

たとえば、「これをやれば必ず報われる」というルーティンを持っている人は多いですが、これも自分が解釈した信条の上に成り立っています。客観的に考えれば、「努力をすれば報われる」なんて、どこにも保証がない。仮に努力している人でも、突然、工事中のビルから鉄鋼が落ちてきて死ぬ確率はゼロじゃありません。それでも、「私はこういう考え方、生き方をしていく。これが幸せになる方法だと信じているから」と考える人は多いですよね。

――たしかに、神や宗教は信じていなくても、大きなものから些細なものまで、自分なりのポリシーを持っている人は多いですよね。

安永 なぜかというと、世の中で起きている大半のことは明確な因果関係が立証できないからです。あくまで心象によって違うし、科学と違って証明することもできない。その信条をより普遍的なものに落とし込んだのが、宗教だと僕は思います。

宗教とは自分が求めたときに、心に入ってくるものである

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――科学全盛のこの時代、宗教が人に求められるのはどんなときなんでしょうか。

安永 求めた時にすっと心に入ってくるものが大切なんです。たとえば、肉親が亡くなって悲しんでいる人たちに、「亡くなった人は、この世で人生が終わったのではありません。その人たちは、たちどころに浄土で生まれ変わって、仏さまになられた。その人の肉体としては無くなったけれども、『働き』として、この世に戻ってきて、あなたがたを見守って支えてくれているから、安心して毎日を生活してください」と浄土真宗の法話をすると、スポンと受け入れられるわけですよ。

普段はこんなことを言われても、「そんなバカなことがあるか」と思うかもしれません。でも、この浄土真宗の教えは、長い年月を経て、いわば歴史のテストをクリアして、ひとつの体系として成り立っているんです。この世界観は、人が生きて死ぬこの世の中では、非常にフィットするものだったのだと思います。

仏教における「働き」とは、素粒子のようなもの

――さきほど、「働き」という言葉が出ていましたが、これはどういう意味なのでしょうか?

安永 私自身は、仏さまとは「働き」だと思っています。現代風に言うと、「働き」はパワーやエネルギーのようなものだと、私は考えています。質量を持ったエネルギーではなく、素粒子のようなものじゃないかと思っています。目には見えない。でも、私たちの細胞に直接働きかけるもの、として。

たとえば、2002年にノーベル賞を取ったことでも話題になったニュートリノも素粒子のひとつです。宇宙のはずれで、星が生涯を終える際に起きる超新星爆発のとき、宇宙にはニュートリノが飛び散ります。でも、ニュートリノは非常に小さいので、はるか遠くの宇宙空間から飛んできても、地球や僕らの身体を通り抜けてしまうんですね。いま、こうしている間にも、僕らの身体には何兆個ものニュートリノが通り抜けているんです。

そして、ニュートリノには質量があるということを発見したのが、科学者の小柴昌俊さんですね。小柴さんは、地球の表から飛んで来るニュートリノと裏側から飛んで来るニュートリノが衝突したら、火花が散ると考えた。そして、ニュートリノがぶつかったときに発生する光を、光電管でキャッチして、ニュートリノの存在を証明しました。

何が言いたいのかというと、ニュートリノのような素粒子の働きは、私たちの目には見えないし感じることもできないのですが、これらの働きや圧力、電磁波のようなものは確実に存在している。それと同じだと思うんです。

親鸞聖人が出会った仏さまが、「無限の光」だった理由

――仏さまも素粒子のように、五感で感じることはできないけれども、そこに存在している……ということでしょうか?

安永 はい。経典からひも解くと、親鸞聖人が行きついた阿弥陀如来の存在は、「帰命尽十方無礙光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」「帰命尽十方無礙光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」と呼ばれるように、「数限りない光」を意味します。また、「阿弥」はサンスクリット語のAmitābha(アミターバ)、Amitāyus(アミターユス)の漢語への翻訳で、「無量」を意味します。つまり、仏さまは絵姿にあるような人型の像ではなくて、無限の光として表現されているのですが、これは非常に理に叶っていると思います。

ご本尊横

――なるほど。仏さまとは、我々が良くイメージするような「人型」の存在ではなく、素粒子のような存在としてとらえている方もいるのですね。

安永 光も「光子」という小さな素粒子によって成り立っていて、日々、光子が跳ね返ってきた波長が頭の中で変換されるから、私たちの目は物体を認識できます。素粒子物理学の世界に、仏教経典に書いてある仏さまの存在を置き換えると、非常に説得力があるなと思います。実際、原子物理学者には宗教を信じている人が多いし、こうした考え方は仏教学者の間では通説になりつつあります。

もちろん、こうした考え方に対して、「こじつけじゃないか。一致するわけがないだろう」という意見もあると思います。でも、仏教は、お釈迦様が説いたものを、インドのアーユルヴェーダの時代からの伝承などとうまく混ざり合い、何百年もかけて多くの人に精査され、文書化されてきたものです。そう考えると、すべてがあながち絵空事や嘘ではなく、どこかに真実が混じっているのではないかと思うんです。

安永宗務長が語る「築地本願寺宗務長が語る仏教との向き合い方」第4回目は、こちらからお読みいただけます。

【バックナンバー】銀行マンが、僧侶の道を選んだわけ【築地本願寺宗務長が語る仏教との向き合い方②】はこちらから