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シン・ウルトラマン論考

 先日、シン・ウルトラマンを鑑賞してきた。
 結論から言えば、自分はネガティヴな感情を抱いた。パンフレットを読んでもいないし、製作者インタビューなども見ていない。そういう人間があれこれと語るのも上から目線に過ぎるかもしれないが、ある意味一番闊達に語れる人間でもあるということだ。どうか、ご容赦をお願いしたい。
 本テキストにはシン・ウルトラマンに関する重大なネタバレを含む。未見の方は是非、視聴してから本文に目を通して欲しい。

 自分はよく、「楽しむための文法」という言い回しを使う。たとえば自分は恋愛についてあまりいい思い出がないので(はっきり言えばモテない青春時代を送ったのだ)、恋愛映画を楽しむ素養が育たなかった。本作においても同様で、自分には「シン・ウルトラマン」を楽しむ素養がなかったのだと考えている。
 ネガティヴ云々と言っておいて何だが、決して「見て損をする」ような作品ではない。しっかりと作り込まれているし、娯楽大作として素晴らしい作品だとも思う。だからこそ、自分はこの作品を評価できないのだ。

『シン・ゴジラ』に続く作品として

 本作『シン・ウルトラマン』は、庵野監督の『シン・ゴジラ』に続く特撮映画リブートシリーズの二作目に当たる。作品への評価は人それぞれだと思うが、実際シン・ゴジラは傑作だったと言って良いだろう──やや鼻につく日本賛歌などあるものの、一本の映画として見た場合、その完成度は極めて高いものだった。
 対してシン・ウルトラマンはどうか。
 個人的には、ひどく寂しい気持ちになってしまった。
 やはり作品としての完成度は高い。娯楽大作として隙なく作り込まれているし、映像表現も「目指せハリウッド」のような無理はせず、ウルトラマンという枠組みの中で最大限の効果を発揮できるようになっている。
 脚本やカメラアングルなどは露骨に原作(初代『ウルトラマン』)を意識して撮影されており、正直目新しさは感じられない。

 このどうしようもない「新しくなさ」こそ、自分が本作をどうしても評価できなかった最大の理由だ。
 シン・ゴジラには志があったように思う。現代の技術、現代の俳優、現代の脚本術でゴジラを撮ったらどんな作品になるかという、いわばゴジラへの挑戦が描かれていた。
 対してシン・ウルトラマンに、そのような挑戦は感じられない。
 恐ろしい程徹底的に原作を踏襲し(前述した通り、カメラアングルまで原作準拠していると思しきシーンがある)、話の流れもほぼほぼ初代ウルトラマンと変わりがない。いくつかのエピソードをうまく切り貼りし、映画サイズに整えたのは確かに凄まじい執念だが、これが後にどうしようもない乖離となってしまっている。

 ゴジラは、既に国内では作られていない。だからこそ新しい表現、新しい物語を生み出すことで現代にリブートされたシン・ゴジラは、「庵野監督が撮ったゴジラ」として名作になった。
 対してウルトラマンは、現在も新シリーズが展開中だ。
 そんな状況だからこそ、自分は庵野監督なりの「令和の庵野版ウルトラマン」が見たかった。「令和の円谷ウルトラマン」が見たかったわけではない。リメイクではなく、リブートをして欲しかったのだ。
 恐らく自分がネガティブな評価を下す理由はここにある──見たかったものはこれじゃなかったのだ。だからというわけではないが、そもそも初代ウルトラマンを見ていない、あるいはさしたる思い入れのない方ならば、シン・ウルトラマンを楽しむ素養は十分にあると思っている。
 シン・ウルトラマンは「初代を知っていればいるほど寂しくなる」構造だったのだ。

何故ガボラとネロンガだったのか

 本作には怪獣(一応作中では禍威獣とされているが、ただの読み替えなのでさしたる意味はない)が出現する。
 初代ウルトラマンはそもそも宇宙人VS怪獣のプロレスという、子供が大喜びする要素がたっぷりと詰まった作品だった。わざわざその要素を削除する意味はないので、シン・ウルトラマンにも複数の怪獣が出現、楽しいプロレスを繰り広げる。
 だが作品に登場する以上、そこには何らかの意図があるはずだ。
 何故、ネロンガとガボラだったのか。
 スーツを共有しているネタなどから、この二体が選ばれたのだというのはわかる。作中でも「生物兵器ではないか」と示唆されているし、その伏線として選ばれたのだろう。
 だがそもそも、生物兵器だから似ているんだというネタそのものが、本作に必要だったのだろうか?
 正直あまり意味はなかったように思う。リアリティを求めるシン・ゴジラのような映画であれば、こういった伏線には効果があったかもしれない。だが本作においてはリアリティなど二の次、三の次であり、たとえ怪獣達が生物兵器だったとしても、外見が似ている必要性などないはずだ。
 知名度で言うならレッドキングやゴモラなど有名怪獣を出すべきだろうし、それこそ古参ファンを相手にするならベムラーは外せないだろう。
 現代風にリメイクされたネロンガとガボラは確かに格好良かった。特にガボラはパワードケムラーのような不気味さがあった。でもそれなら、庵野版レッドキングが見たかったと思ってしまうのだ。

外星人の選出理由と、「初代縛り」の功罪

 本作にはいわゆる宇宙人(初代で言うところの星人)として、外星人というキャラクターが登場する。ザラブ、そしてメフィラスだ。ここでも「何故この二体が?」という疑問が立ち上がる。
 初代において、いわゆる宇宙人枠は驚くほどに少ない。バルタン星人、ザラブ星人、メフィラス星人、ゼットン星人の四種だけだ。細かく言えばジャミラやダダも宇宙人枠なのだが、明確に名前に「星人」とついているのはこれだけしかいないのである。
 その中で、何故ザラブとメフィラスなのか。

 シン・ウルトラマンは、先述した通りに徹底した「初代縛り」が施された作品だ。これ自体は決して悪いものではなかった。作品としての統一感が生まれたし、『ウルトラマン』とはっきり銘打ったからには、後続シリーズに登場する敵を出すのは確かに違う気もする。
 自分は思うのだが、恐らく庵野監督は、初代にもあった「シリアスな中のユーモラス」を削りたくなかったのではないだろうか。子供が見ても面白いと思える要素を、最後の最後まで捨てきれなかったのではないか。
 初代で言うところのシーボーズ回のような、絶妙に緩い空気がシン・ウルトラマン全体に流れている。作品の温度をシリアス一辺倒にしなかったという意味では素晴らしい判断だが、同時に「微妙なダルさ」が漂ってしまっていなかったか。
 本作を鑑賞すればわかるのだが、奇妙な間延び感が凄まじいのだ。
 これは恐らく、「どこかコメディが抜けきれない故の緩さ」によって生まれてしまった感覚だと考えている。

 そしてこの「シリアスの中のユーモラス」を演出するためには、ザラブとメフィラスは確かに適役なのだ。
 にせウルトラマン(「偽」ではなく「にせ」なのだ)や巨大フジ隊員など、初代における「深刻なシーンなんだけど何だかユルい」登場人物達は、まさにシン・ウルトラマンの空気にぴったりとフィットしている。
 だが、そのためだけにバルタン星人という有名人を切り捨てるのはあまりに勿体ないのではないか。知名度、キャラ性、ともに抜群のバルタンは、何故本作に出演できなかったのか。

 庵野監督は、徹底した初代縛りを施した。
 だがその縛りが、物語のクライマックスに向けて少しだけ解けてしまう。
 ゾフィーとゼットンだ。初代においてはあくまでもウルトラマンの味方であったゾフィーは、シン・ウルトラマンにおいては実質的な悪の親玉である。ラスボスであるゼットンを連れてくる、ゼットン星人の立ち位置にゾフィーがいるのだ。
 ちなみに、正確にはゾフィーではなくゾーフィなのだが、本文中では敢えてゾフィーと書いている。シン・ウルトラマンにおいては何故ゾーフィという名称なのか、ゼットン星人の立ち位置に収まっているのかについては、一応元ネタがある。詳しく知りたい人はそれぞれ検索などしていただきたい(簡単に言えば、当時の児童誌の誤報が元ネタだ)。

 ゾフィーは「人類は滅ぼすべきだ」と主張する。対してウルトラマンは「人類を守る」と宣言する。この流れが恐らく、バルタン星人を出演させることができなかった理由だろう。
 初代において、ウルトラマンはとてつもない大虐殺を行う。地球に来ていたバルタン星の住人達を、ほぼ絶滅させてしまうのだ。
 もちろんバルタンだって地球侵略に来ていたわけで、ウルトラマンに責められる筋合いなどないのだけど、この展開はシン・ウルトラマンにはあまりにも不向きだ。ゾフィに人類の危険性を指摘されても、頑なに「人類を守る」と主張するシン・ウルトラマンにとって、バルタン大虐殺はあまりにも言行不一致なのだ(おまえだって別の星の人ら殺してるやんけ、とゾフィーにツッコまれてしまう)。
 かといってバルタン星人関連エピソードを改変することはできない。原則的に初代を踏襲するシン・ウルトラマンに、大胆な脚本改変は御法度だ。
 徹底した初代縛りと、その綻びと。
 この二律背反の狭間で、バルタン星人という存在は消し去られた。

本当にただの『ウルトラマン』を撮りたかったのではないか

 庵野監督は、シン・ゴジラにおいてゴジラを改変し、現代版としてリブートした。あれはゴジラにあってゴジラにあらず、あくまでも「庵野監督が作り出した時空を襲撃した巨大不明生物」だった。
 だが本作において庵野監督は、そのような存在ではなく、本当にただの「ウルトラマン」を撮りたかったのではないだろうか。意図的に真似されたカメラアングルやカット割り、懐かしの戦闘BGMなど、現代版としての息吹はほとんど感じることができなかった。

 正直ここまで徹底するぐらいなら、わざわざゾフィーを悪役にする必要がなかったのではないかと思う程だ。普通に最終外星人としてゼットン星人が出てきて、ゼットンと戦わせるで良かったのではないか。
 物語終盤で交わされる「人は滅びるべきか否か」の会話は、むしろ禍特対の隊長である田村と神永(ウルトラマン)の間で交わされても良かったのではないか。人間同士として話すことで、かえって「人類を守る意味」が強調できたのではないかと思ってしまう。とはいえこの辺りは単純に自分の好みの問題で、展開的に不出来だとかそういうことではない。

 だが、敢えて、敢えて強い言葉として「不出来」を用いるならば、ゼットンのデザインは良くなかった。設定変更はもう仕方ない、そういうものと飲み込もう。だがあのデザインはあまりにも、あまりにもよろしくない。
 だがこれはこれで酷な話でもあるだろう。正直、初代ゼットンのデザインは神がかっている。ラスボスとして完璧過ぎる造形なのだ。正面から立ち向かうより、いっそ大幅な設定変更と共にデザイン改変を加えるのも、仕方ないと言えば仕方ないことだろう。
 だがせめて、宇宙恐竜ゼットンとしての下地ぐらいは残せなかったのだろうか。
 初代ウルトラマンは、ゼットンとの戦闘で惨敗する。子供向けヒーロー番組とは思えないほど、徹底的に敗北するのだ。
 
正直、この回のウルトラマンにいいところは一つもない。出てきて、全ての攻撃を弾き返されて、ボコボコにされて死ぬ。本当にそれだけだ。だからこそ絶望感は凄まじかった。最終話の一話手前まで、なんだかんだ苦戦はしつつも最終的に怪獣をやっつけてきたウルトラマンが、突然手も足も出ずに負けるのだ。しかも、等身大の相手に。
 自分が一番引っかかったのは、あの巨大さだった。『ウルトラマンガイア』のラスボスである根源破滅天使ゾグのような、超巨大な怪獣形態。ガイアにおいてはその巨大さ故に絶望感を演出したが、シン・ウルトラマンにおいては、その巨大さに意味はなかったように思う。あんだけでかけりゃ勝てないよね、という諦観が芽生えるばかりだ。
 ガイアにおけるるゾグは、やたらとでかいが「勝つべき相手」だった。
 だがウルトラマンにおけるゼットンは違う。あれは「負けイベ」なのだ。絶対勝てない相手なのだ。その絶対勝てない相手が、明らかに勝てそうにないデカさの怪獣だったら、何とも興ざめではないか。ウルトラマンと同じような大きさで、けれど圧倒的な力を持っていることこそゼットンの神髄だったのではないか。
 だから、シン・ウルトラマンにおけるゼットン戦はとにかく盛り上がらない。メフィラス編までが本作のキモだと断言してしまっても良いぐらいには、平坦かつあっさりと進行して終わっていく。
 かつてのゼットン戦において描かれた、ウルトラマンという絶対者の敗北と、庇護されていた人間の勝利というカタルシスは、本作には存在しない。ウルトラマンというシリーズの最終回に相応しい、「超人の庇護からの脱却」というテーマが、シン・ウルトラマンからはまるで感じられないのだ。

 懐古厨乙と言われてしまえばそれまでだが、そもそも庵野監督が撮りたかったのも(そうではなかったとしても、現実的に作品として上映されたのは)懐古に満ち溢れた『シン・ウルトラマン』だった。だからこそ、過去を裏切るような設定改変に、諸手を挙げて賛同することはできない。
 裏切るな、と言っているのではない。そこは誤解しないで欲しい。むしろ積極的に裏切って欲しかったし、新しいウルトラマンを見せて欲しかった。
 裏切るならもっと上手にやってくれ、と言っているのだ。

娯楽大作としての『シン・ウルトラマン』

 シン・ウルトラマンは娯楽大作だ。それは間違いない。
 見て損はない。むしろ十分に楽しめる作品だろう。
 だが、感動もしない。驚きがないからだ。順当に始まり順当に終わる。ヒーロー作品としては当然の造りだが、『シン・ゴジラ』に次いで作られたものとしてはいささか物足りないのも事実だろう。

 自分が気になったのは、「娯楽大作になり過ぎてはいないか」ということだった。初代ウルトラマンにあった「妙な説教臭さ」が、シン・ウルトラマンにおいては極限まで脱臭されている。
 初代ウルトラマンには「行き過ぎた科学への警告」や「絶対者への盲目的な服従がいかに危険か」といった、子供向け番組ならではの教訓がセットになっていることが多かった。後続シリーズでもメトロン星人登場回での「我々人類は今、宇宙人に狙われる程、お互いを信頼してはいませんから」という壮絶なナレーションや、もはや伝説回の扱いを受ける『怪獣使いの少年』でのメイツ星人関連エピソードなど、かなり重苦しいテーマも取り扱うのがウルトラマンだったのだ。

 シン・ウルトラマンにおいてはこれがない──かろうじてゼットン戦で滝が「ウルトラマンさえいれば自分達なんて必要ないじゃないか」と落ち込むが(ちなみにこの展開も初代でやっている)、かろうじて教訓らしさを感じたのはその部分ぐらいのものだ。
 しかも滝は割と簡単に復活し、直後にVRで楽しそうに会議している。初代において同じ悩みに囚われたイデ隊員が、ピグモンの死という取り返しのつかない代償を支払ったことを考えれば、あまりにも対照的だ。
 どうせ初代縛りを徹底するなら、こういうところも何とかうまく取り入れられなかったのだろうか。娯楽でありつつ説教臭くもあるというのは、むしろ庵野監督のお家芸だと思っていたのだけど。

「普通の映画」は面白いか否か

 『シン・ウルトラマン』は、原作リスペクトに満ち溢れた娯楽大作だ。丁寧に作り、原作の雰囲気をできる限り踏襲し、オリジナル展開も最小限度に抑え込んだ。
 結果として、ごく普通の映画が出来上がった。
 子供の頃好きだったラーメン屋に、大人になってから行ってみたら、味は変わってないのに美味しいと思えない……そんな寂しさを味わってしまったのだ。

 恐らく本作は、初代ウルトラマンを見ていない人の方が楽しめる。見ている人でももちろん楽しめるし、相違点を探すこともできるけれど、少なくとも自分にはそういった楽しみ方ができなかった。
 面白いのに、楽しめない。
 なんとも奇妙な気持ちだけど、これが偽らざる自分の本音だ。

追記

 本作のテーマ曲、米津玄師さんの『M八十七』は本当に素晴らしいので、お勧めです。本当にお勧めなので書かざるを得なかった。

 
 

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