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結論ありきの考察はしない

思うこと

 分析や可視化をした後は、「考察」や「結果の報告」のような作業がほぼ100%ついてきます。このようなまとめの作業をしている時、いつも思うことがあります。それは純粋に分析や可視化の結果を受けた考察をしようということです。要するに結論ありきの考察や報告・まとめをしないという意味です。

 これは何も分析や可視化に限らず、日頃の生活の判断でも結論を決めてから、都合のいい理由を探してを固めていくようなことはしないようにしています。この辺の考え方は高校時代の体験に起因します。

体験

 高校生のとき、文章表現という授業がありました。講師は元記者で、毎回講師に与えられたテーマで文章を書き、添削されるというものです。評価そのものは多少の前後はありましたが、比較的安定していました。
 しかし、1度だけ明確に悪い評価を出されたことがあります。この時のテーマは『日本のスポーツはなぜ弱いのか』というものでした。私は、時間内に極力様々なスポーツの国際大会の結果を調べた上で、オリンピックのメダルの獲得個数やWBCの結果などから弱くないと結びました。で、添削に書かれていた事が、弱いというテーマに沿った文章を書きなさいという事でした。強烈な違和感がありました。

 当時は違和感で終わっていましたが、言語化すると「弱い」という結論に向けて文章を書くべきという指摘は、破綻しているからです。書き出し時、国際的に日本のスポーツがどの立ち位置なのかは分かりませんでしたが、とりあえず調べた中では弱くはない、となると、弱い理由は当然かけません。例えば特定のスポーツの弱い理由を、スポーツ全体の話にすり替えるなど、やりようはあるのでしょうが、これは間違った解釈になってしまいます。調べてみて弱くなかった以上、弱いことに向けて文章を書くのは流石に無茶です。

まとめ

 社会の中で、結論ありきで動いていることは多々あります。社内の人事から、グレーな部分で言うと発注する業者の選定まで、それはそれは多くの事柄が結論ありきで動いています。新卒で入った会社の役員が、社会は人文科学の論理で動いていると言っていましたが、このような玉虫色の話は、できればデータサイエンスの中から排除していきたいと思う、今日この頃です。




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