【道徳】歌詞を道徳の教材とすることの難しさと歪さ
歌詞道徳は、なかなかできない。少なくとも、今の自分にはできないと思っている。
理由はいくつかある。
まず、内容項目が決まる。その次に、その候補となる歌詞を打ち込んで広げてみる。しかし、手が止まる。「あ、ここのこのフレーズが「キモ」だな」と一瞬は思うものの、他のフレーズとの観念的な整合性が合わないことにすぐ気づいてしまう。「なんか、薄っぺらい思考階層で終わるな…」と、そこで思考が止まってしまうのだ。
また、上記の問題を解決するための教材研究の時間が取れ(取ろうと思わ)ないことも挙げられる。僕は国語科の教材に関して長期休みをかけて1教材を徹底して研究したことがあるのだが、それは教科書に載っている教材であったし、何より自身の認知心理学の研究に用いる教材でもあったからだ。
自主開発道徳は、僕にとっては日常で出会う様々な事象や、それとの「出会い」自体を分析することから始まるものだ。しかし、歌詞道徳を扱うならば、上記の国語教材レベルの研究をしないと問われるものの具体が僕には見えてこない。そうすると、「歌詞道徳をする」という、内容項目が何になるのかわからない手探りの道徳教材研究が始まってしまうのだ。長く長く研究した末に「この教材は授業で扱うに適さない」となる可能性もある。
歌詞道徳、まだまだ実施に至るまでの道のりは険しい。
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