言語の限界?

「言語」について疑問を感じたのは、小学生の頃だった。
幼少期にありがちかと思うが、ある言語をちゃんとした記述通りの発音ではなく、舌足らずに発音をしていて、
それがなんだか面白くて言葉を崩して遊んでいたことがある。
その折に英語という言語の存在を認知して、英語と日本語の違いに興味を持った。
そしてそこで衝撃的な言語の気づきを覚えた。

それは「イェーイ!」というワードだ。

英語に直すと「Yeah!」で読みは実際”イェア”になるのだが、それが「イェーイ」としてカタカナ英語で定着したものだ。
何を疑問に思ったかというと、日本語の「イェーイ」の記述表現にはYの音が含まれていないのでは?と思ったことだ。実際に発音してみてほしい。
「い」と「え」をしっかり発音するとYの音が入ってこないことに気づく。

でも表現しようしても明確にその音を記述するカタカナを充てることができなかった。(Yに倣って無理やり”いやぇー”としてもなんかしっくりこない)
つまり「Yeah」という記述と音は英語には存在するものの、日本語では音として存在するが、完全な記述はできないということだ。

また似たような気づきで、猫の鳴き声として日本語で定番なのは「にゃー」という表記だが、英語では「Meow」と表現される。
犬も「ワンワン」に対して「bowwow」と、音として似てはいるものの若干捉え方が異なっているという点の面白さにも気づいた。

このことから、言語が異なると世界の捉え方が異なるっぽいぞ。と子供ながらに思ったのだ。
英語と日本語の捉え方に差があるのなら、フランス語やヒンドゥー語など他の言語でも似たことが起きているのだろうと想像できた。

今肝心なのはこれらが一体どのような影響を及ぼしているのか?ということである。
まず考えられるのは想像できる世界が異なってくるのでは?ということだ。

そもそも、言語自体は「初めから存在している」のではなく、歴史的に人間が作ってきたものである。ということをしばしば忘れる。
なので、地域や文化の影響を強く受けており、言語ルールには恣意性が含まれていることを思いださなければならない。
(そもそもルール自体が自然的なものではなく人間が決めたことなので恣意性を孕んでいるが)

言語は感覚を表現するための手段であり、異なる文化や言語で感覚がどのように表現されるかは多様であるが、ある種強制的でもある。
日本語話者にとっては犬の鳴き声は「わんわん」としか「表現しようがない」が、英語話者であれば反対に「わんわん」と表現することが「できない。」
これは音を記述しようとした際に起こるものだが、わんわんの世界に生きるのかBowwowの世界に生きるのか、我々は言語によってある程度方向づけられていることを理解する。

聴覚以外の視覚でも、有名な虹の色の話がある。
日本では7色が一般的と思われているが、国や地域によって2色から8色までばらばらなのである。
これは色彩感覚によるところが大きいのだが、日本において虹は7色という固定観念があるだけで、実際に数えてみると人によって数えられる色の数は違うのかもしれない。
(個人によって視覚、聴覚などの感覚情報は異なることは理解できると思う。)

感覚が異なる者同士がどうにか情報を共有するために使う言語だが、言語そのものにも対応できる範囲があるようで、冒頭の「Yeah」もその一例であると言える。

どうやら人間は感覚をそのまま理解することは難しく、一度言語に「翻訳」しているっぽいぞと小学生の時に気づいた自分は天才なのではないか。

残念ながらその後、それ以上その才能を発露することはなかったが、哲学に興味を持ってからこの疑問が再燃してきた。

これを機に改めて言語について学んでみたいものだ。

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