ショートショート『ダンスインザダーク』

 カウンターの隣でけらけらと楽しそうに笑う紗理は、昔よりずっと綺麗だ。だけれども、彼女の目の奥に高校生の頃にはなかった暗いものがあって、どうしようもなく破滅的な印象を覚えてしまう。時刻は午前二時を回っていた。外に出れば冬の寒さが身を刺しそうだ。

***

 この街には出張で何度か来たことがあるが、ナイトクラブに入ったのは初めてだった。入社直後から付き合っていた恋人とつい最近別れるまで、そういった男女の思惑が入り乱れる場所には出入りしないことにしていたから。
 夜の接待の後、いつものように同僚に誘われ、いつものように一度は固辞した後、断る理由もないことに気が付いて気晴らしに末席に加わることにした。作法もわからないまま、ホールの真ん中で一心不乱に踊っている女の子をぼうっと眺めているうちに、同僚の彼らはそれぞれどこかにいってしまったけれど。
 時計を見ると、11:55。特に目的があったわけでもない、そろそろ帰ろうとカウンターの横を通った時、さっき女の子が男に絡まれていた。
「だから、嫌だって言ってるでしょ。離してよ。」
「なんだよ、今日はずいぶんノリが悪いな、この前楽しく飲んだじゃないか。」
「・・・。あんたなんか知らないわよ。」
 聞いたことがある声だな、と思ってよく見ると、その女の子が高校の同級生である安藤紗理であることに気が付いて大いに驚いた。
 紗理とはクラスメイトで、比較的仲のいい友達だった。お互い部活が忙しかったが、定期試験前に部活が休みになると、男女数人のグループで勉強を口実に集まってボーリングにいったりカラオケに行ったりして遊んだこと、卒業してから彼女と連絡を取る機会がなかったのでどうしていたかずいぶん心配したこと、十年前の記憶がぽつりぽつりと蘇る。僕は彼女が僕を覚えていてくれる可能性に賭けることにした。
「紗理?」
 彼女は驚いた様子で、
「拓哉、くん?えーっ、めっちゃ久しぶりじゃん!」
 と盛大なリアクションをとってくれた。
 自慢ではないが、僕は身体がデカい。身長は百九十センチメートル近くあるし、アメフト部で鍛えた筋肉も相まってかなり迫力がある体躯と言って差し支えないだろう。紗理に絡んでいた男はぶつぶつ言いながら、そそくさと店を出ていった。特に喧嘩が強いわけではないので、本気で殴り合いをしたら男にも勝機はあっただろうが、そうさせないだけの見掛けは、こういう時案外役に立つ。
「高校の卒業式以来だね、っていうかなんでこんなところにいるの?」
「それはこっちが聞きたいよ。」
 このように僕と紗理は地元とは遠く離れた九州の空港都市で再会し、日付が変わろうかという深夜にも関わらず、偶然を祝して近くのバーで飲み直す事となった。

***

 紗理は美人で、それでいて気取ったところがなく、クラスの人気者だった。ダンス部の部長をしていて、大会になるとアメフト部の応援にも来てくれた。
 引退試合の後(どういう経緯か忘れたけれど)、二人っきりで帰ったことがある。グループでいつも一緒に遊んでいる時はよく話すのに、二人になるとお互いどことなく気恥ずかしくて、頻繁に流れる沈黙が気まずかった。
 二時間ぐらいは話しただろうか。十年経っても紗理は変わらず美人で、いや、さらに磨きがかかって、露出が多い服装のせいか妖艶なまでに魅力的だ。彼女は僕が卒業後にどうしていたかを具に聞きたがったので、話題は専ら僕の身の上話になった。大学の工学部を卒業した後、大手の化学メーカーに入社して、今では技術営業の仕事をしている。本当は大学院に進学して技術職に就きたかった、という話は、楽しい雰囲気に水を注しそうで飲み込んだ。葛藤とか挫折とか、この場にふさわしくない話を割愛したからか、一通り話を聞いた彼女は感嘆してくれた。
「ほんとすごいよ、拓哉くん、頑張ってるんだね。」
 今度は紗理の番、と思って彼女の方を見ると、さっきまでの笑みが消えている。
「何か悩みがあるなら、話だけでも聞かせてくれないか。」
 踏み込み過ぎた、そう思った時にはもう遅かった。彼女は静かに涙を流し、声を殺して泣き始めた。僕は静かなバーのカウンターの端で、紗理をそっと抱き寄せ、彼女を襲った悲しみだか寂しさだかの波が引き返すのを待った。
 
 しばらくして、彼女は三度深呼吸をしてから、小さな声で言った。
「私ね、高校の卒業式の日から今日までのこと、なんにも覚えていないの。」
 え。
 僕の言葉は声にならなかった。
「私、高校の卒業式で倒れて、病院に搬送されたでしょ?」
 そうして、紗理は静かに話し始めた。

***

 ばたん。
 高校の卒業式の日、式次第も無事に終わり卒業生退場というタイミングで紗理は倒れた。体育館が寒過ぎたからだ、とか、女性特有の貧血だ、とか、さまざまな噂があったけれど何が原因なのかは結局わからなかった。卒業式の日以降、彼女と連絡を取ることができた友人は一人もいなかったから。療養のためにどこか遠くの病院に入院したという噂だけが卒業後の彼女についての唯一の情報だった。今日、僕が彼女を見つけるまで。
「私ね、あの日以来、眠るとその日あった事を全部忘れちゃうの。そういう病気、なんだって。」
 前向性健忘症というらしい。医者の説明によると、ある受傷を境に記憶を保持できなくなる障害だそうだ。
「だから、今日拓哉くんに会ったことも、たぶん明日には忘れちゃう。」
 昔のように甘酸っぱい沈黙ではない。重苦しい沈黙が二人の間に鎮座した。ややあって彼女は意を決したように再び口を開く。
「でもね、それとは別に、変な記憶がずっと私の頭の中に居座っているの。急にじゃないよ、十歳ぐらいの頃から少しずつ少しずつ、別の人の記憶みたいなのが頭の中に流れ出してきて。時代的にはちょっと昔、昭和の頃みたい。その人もダンサーで、というか、その人の記憶が私にダンスをさせていたんだと思う。」
 突拍子も無い話に、僕は引き続き言葉を失っていた。
「それでね、だんだんその人の記憶が大きく強くなって。あの卒業式の日に、あー、もう高校生おしまいか、みんなと会えなくなるの寂しいな、って感情が昂った瞬間、その人の人生最後の記憶が溢れ出してきたの。すごいショックだった。それで倒れちゃって、それっきり。記憶の容量を使い切ったみたいに、なんにも覚えておけなくなっちゃった。」
 紗理の説明は克明な描写だった。紗理の中にある記憶の持ち主は、どうやら殺害されたらしい。ホテルで男に滅多刺しにされる、そういう記憶だった。僕は途中で話を遮り、説明をやめさせた。やめるべきだと思った。話をやめた彼女はトイレに立った。もっと早くやめさせるべきだった。

*** 

 夜が明ける前に、紗理を家までタクシーで送って行った。連絡先は交換したが、彼女から連絡が来ることはなかった。当たり前だ。次の日には僕に会ったことも忘れてしまうのだから。あの時僕は彼女の話を受容できず、それゆえどのように彼女を助ければいいかわからなかった。後悔してももう遅い。どれだけ探しても、あの街で彼女に会うことは二度とできなかった。
 
 半年ほど経った初夏の頃、北海道の繁華街で、二十八歳の女性が六十五歳の男性を刺殺し、自分もその場で命を絶ったというニュースをテレビで見た。事件があったナイトクラブは人間二人の夥しい出血で騒然となったらしい。紗理は、自分でない誰かの記憶と怨念に揺り動かさせるように、地方の大きな都市を放浪し、夜な夜なダンスをしているみたい、と言っていた。そうすれば、会いたい人に会えるかも、と。
 テレビの電源を切り、唇を噛んだ。紗理の別れ際の言葉を思い出し、僕はあるべきだった世界線を想う。
「本当は拓哉くんと朝まで一緒にいたいけど、こんな私に子供ができたら、そんな悲劇ってないよ。」
 血の味がする。賃貸アパートの壁に空いた穴と、壊れたリモコンはまだ直していない。
(了)

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