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いい写真を撮るために割り切ったこと&役に立ちそうなこと

冒頭からタイトル詐欺を自白します。
私は「いい写真」が何かわかっていません。

ここから書かれる文章は「上級者とも初心者ともいえない自分が思い悩んだ末に試行錯誤して吟味したtips」です。
それが結果的に「いい写真を撮るための施策」になってたらいいなーという情報共有。

割り切ったこと3つ
役に立ったこと3つ
をそれぞれご紹介。
さっそく行ってみましょう。

割り切ったこと

①「○○構図」は道具

初心者向けの写真講座を見ると、たいていとっかかり「まず三分割構図で!」「脱、日の丸構図!」みたいな感じで構図について説明されます。
確かに言われて試してみると、それっぽく撮れるものです。

しかしこの「○○構図」の説明、だんだんと疑問符が付くようになりました。
たとえば「なぜ三分割構図は『3』なのか、4や5では成り立たないのか」とか、「いや俺は25分割だ」とか言ってる人いるけどなんなん?とか、これ認知科学的にエビデンスある論なの?とか。
あとはこんな動画。

言わんとしていることは判る。
にしても「『この絵・写真はなぜいいのか』を説明するためにこじつけてないか?」
そう思ってしまうのです。

あと撮影中に(ここはラバットメント構図を意識して物をここに配置して…)って考えてる間に被写体が動いちゃう。
デジタルの時代なんだから1枚でも多く撮っておいた方がいい。

なので「構図はあくまで『なぜいいのかを説明するための道具』だ」と割り切ることにしました。
撮影中はとにかく被写体に集中して、様々なパターンを撮っておく。
後からレタッチしてみて、いちばん良さそうな1葉を「なぜいいのか」と考える際の道具として運用するのがベターなのでは、と思ってます。

②時期モノ・流行りのスポットを網羅しようとしない

季節の移ろいによって、その瞬間で流行りの被写体があります。
執筆時点だと菜の花や桜の満開が待ち望まれている時期です。

またSNSキッカケで特定のスポットがバズって、人気が集中するなんてこともあります。
東京スカイツリーの麓で河津桜額縁構図+スカイツリーなんかは直近の最たる例です。

写真は記録的意味合いもあるので、どうしてもコレクション欲とのつながりが大きいものです。
あれもこれも、今しか撮れないから撮りに行きたい!と。
しかし急な予定が入ったり、金銭的・体力的・地理的な問題で行くのが困難だったりと、全部が全部網羅するのは現実的ではありません。

精神的に苦しかった時に、どこにも行けなかったことがありました。
みんな彼岸花撮ってるのにな~って。
そんな義務感で撮影に行くのって楽しくないんですよね(行ったら行ったで楽しんだけど)。
自分が楽しめる範囲で、行ける範囲で、いい写真を撮るためには~って考えるのが長く続けるポイントだと割り切りました。

まだ2分咲きくらいの桜も風情だろうと

③機材や設定に真理や正解は無い

私がポートレートを撮る際の機材は、決してフラッグシップモデル勢ぞろいというワケではありません。
撒き餌レンズで撮ってたりしますし、ストロボもクリップオンタイプ1灯です。

広告のためのポジショントークな側面はありつつも、日本の写真界隈は「金をつぎ込んだ者が正義」な風潮があると思っています。
これはカメラ大国、つまり機材そのものに対しても価値を見出している点や、マウント取りたいマンの愚考・愚行からと考えています。

また設定についても、「写真に求められる再現性」のような論から提示が求められます。
フォトコン雑誌見ても「ここではF13ではなくF9や11でいい」みたいな指摘が入ってたり。
な~んかしっくりこないな、正解を導き出せと言われてるみたいだな、と。
そんな折ひとつのツイートを見つけました。

これってビギナーの方にとって適切なアドバイスだと思うのです。
恐らく「カメラやレンズを推すマニアの声」は、やれフルサイズだ、やれ大三元だ、やれモノブロックストロボだ、だったのだと推測します。
でも「とっかかり興味をもって取り組んで、だんだんステップアップしていく」という過程は誰もが通った道でしょう。

機材も、設定も、正味真理というものは存在しません。
写真家、ハービー・山口氏は機材にこだわりなく撮ると聞きますが、魅力的な作品が数多くありますし。
なんか適当でいいくね?って割り切りました。

役に立ちそうなこと

①美術館・写真展に行って考える、本を読む

表現の自由研究「絵画」』でも述べたのですが、写真の歴史は絵画との枝分かれで発生しています。
その流れを追ってみると、絵画にできること・写真にできることが見えてきて、結構勉強になっています。

勉強の流れで、最近美術館や写真展に行くようにしています。
直近ではエゴンシーレ展、深瀬昌久レトロスペクティブ、土門拳の古寺巡礼、など。
写真展では中川達也氏個展、井上哲志氏個展、公募展やグループ展など、行ける展示は行くようにしています。

ただ単に見るのもそうですし、「なんでいいと思うのだろう」と思慮にふける時間としても使っています。
特に個展の場合はご本人とお話をしてみて、撮った時の心情や目的・思想なんかを聴くようにしています。
すると、自分のも他人のも、写真の理解の解像度が上がっていくのを実感しています。

また本も大事です。
包括的な世界観、たとえば「生と死」とか、「愛」とかは創作における一大テーマですし、エッセイやコラムも日常の解像度を高めてくれます。
特に、自分の作品を相手に伝える上で、写真そのもの”解説”ではなく、撮るに至った背景や思想を伝えたいのであれば、本を読むことで言葉を増やすことは必須です。

執筆時点での注目企画展は、新国立美術館の「ルーヴル美術館展 愛を描く」。
建物の撮影で有名なスポットなので、お散歩のついでに行くのも楽しいと思います。

②人と話す

人間、一人で出来ることには限界があります。
私の場合、絵を書いたり詩を書いたり、音楽を作ったりは出来ません。
また考えていることも十人十色。

なのでモデルさんと話してみたり、演劇の脚本家・演出家さんと話してみたりして、他の人が各作品をどう捉えているか聴いています。
すると「別ジャンルなのに実は同じ思考で捉えている事」や「未知の領域の体験や心情」なんかを聴けたりします。
これが大きい。

併せて、自分が写真や文章をどのように捉え、どのように取り組んでいるのか、言語化することもしています。
人に話す、もとい伝えようとすると、頭の中の抽象的な思考を具体化させる必要がありますので、必然的に解像度を高めることにつながります。

こうして毎週noteに綴っている文章も、けっこう人との会話の中での気付きがベースになっていたりしますし。

③体を動かす

誰が言ったかは忘れましたが「写真は肉体表現である」とのこと。
なるほど、被写体に一歩近づくのか離れるのか、背伸びするのか屈むのか、と試行錯誤しているのを鑑みると確かに肉体表現です。

撮影中はとくかく自分が動くようにしています。
ポートレートしかり、スナップしかり。
なので撮影終わりは疲労感MAXですし、逆に疲れていないなら反省すべきとも思っています。

また長めの距離を 歩く人間でして。
ネットだけでは知り得ないような、「ここの場所いいなぁ」という気づきは歩くことでしか得られないですし。
そして歩くうえでなので、いろいろ考え事して思考を整理しています。

そして意味を拡張して、上の2つは「自分が主体的に動かないと始まらない」ことだと。
かなりネガティブ思考な私なので、体を動かすことで「やったれ」と自分に言い聞かせることにしています。

「いい写真」の言語化が課題

普遍的な「いい写真」があるのか、という問い。
歴々の芸術家たちが「美」という概念に立ち向かってきた歴史をもってして、究極の回答は出ていないことを見るに、写真にも答えは出ていません。

逃げの回答を出すなら「人それぞれ」。
しかし特定の作品に評価が集まることを鑑みると、一定程度の評価基準があることは確かです。
ともすると、まずは「自分が思ういい写真」を解像度高く理解し、それを抽象化していく過程が必要です。

解像度を上げる方法のひとつが「言語化」。
機材や場所についての情報、撮影手法や技法、はたまた思想や主張まで、明示されている・されていないにかかわらず、言葉に起こして捉えてみる。

感覚的なものは言語化するにはひどく抽象的ですし、裏付けもありません。
「なんかいい(小並感)」で終わることもしばしば。
そこを深掘っていって、自分が何に心動かされたのか、この心情を他の人にも伝わる作品にするには、と思考が必要だと考えています。
正解のない長旅ですが、しばらく暗中模索してみようと思います。

ご覧の方で「私の思ういい写真はこういうのです!」なんて意見があればコメントください🙏
参考にさせていただきます!

それでは。

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