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クイーン新訳について

 エラリイ・クイーン『十日間の不思議』(早川ミステリ文庫)が、いよいよ本日(2月17日)発売されます(書店によって数日前後する場合があります。ご了承ください)。
 いまから読む人は『災厄の町』『フォックス家の殺人』『十日間の不思議』『九尾の猫』の順にお読みになることをお勧めします。
 この仕事をはじめたとき、まさか自分がクイーンを18作も訳すことになるとは思いませんでした。
 今回の『フォックス家の殺人』『十日間の不思議』新訳に至るまでの約10年の歩みについて、《ミステリマガジン》2019年7月号に「クイーン新訳について」という文章を書きました。早川書房の許可を得て、ここに転載します(雑誌掲載時の内容にひとつミスがあったので、それを含む段落を削除しました。ご了承ください)。
 よかったら読んでください。

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 二〇〇九年から二〇一六年にかけて、約六年半のあいだにエラリイ・クイーンの作品を十六作翻訳した。その期間は、ほかの作家の作品をあまり訳すことができず、寅さん映画を毎年二本撮っていたころの山田洋次監督になった気分だったが、十代のころから何度も読み返してきたシリーズと付き合いつづける喜びは格別だった。
 訳しはじめたきっかけは、こうだ。そのころ、角川文庫で創刊六十周年企画として「今月の編集長フェア」が開催中で、作家などが月替わりでお勧めの作品を数冊選んでいたのだが、あさのあつこさんがご自身の回に『Xの悲劇』を選びたいということで、新訳を角川から刊行することが内定し、わたしが打診を受けた。大忙しの時期だったが、わが生涯のベスト級の作品に取り組める機会を逃す気はなく、もちろんふたつ返事で引き受けた。白状すると、旧訳が何種類も出ているので、それらをパソコンの横に並べて「いいとこどり」をしながら訳していけば比較的早く仕上がるだろうという目論見もあった。
 ところが、そうはいかなかった。その時点で出ていた各社の旧訳は、いちばん新しいものでも一九七〇年代に翻訳刊行されたものだった。そのころから三十年余りのあいだに、翻訳者にとっての調べ物の環境は大きく変わった。八〇年代あたりから俗語表現を満載した英和大辞典がいくつも刊行され、九〇年代の後半からはそれらがつぎつぎ電子化されて、紙の辞書よりはるかに速く調べられるようになった。さらに、インターネットの普及によって、画像検索やストリートビューなどまでが使えるようになり、ことばの説明だけでは視覚的にイメージしづらいものも、いまではかなり高い精度で調べきれる。くわしい説明は省くが、パソコンの横に並べた四種類の訳書を数ページ読み比べたところで、わたしは編集者に連絡し、『Xの悲劇』だけでなく、ドルリー・レーン四部作のすべてをなんとしても新訳したいと志願した。
 ドルリー・レーン氏をはじめ、サム警視やブルーノ判事(途中から知事)やペイシェンス、そしてクエイシーやフォルスタッフやドロミオたちと毎日過ごすのは至福の時間だった。シリーズ完結にあたって、長く付き合ってきた人たち、とりわけレーン氏と別れるのがつらく、その思いを第四作『レーン最後の事件』のあとがきに書いたところ、思いがけず、SRの会の「解説・あとがき大賞」をいただいた。選評には「角川文庫でレーン四部作新訳という重責を果たした訳者の、思い入れたっぷりのあとがきは滂沱の涙を禁じえません」とあった。滂沱の涙を流したのがだれだったのかは知らないが、筋金入りのミステリ読みたちの集団から評価してもらったのは大きな励みになった。
 いまいちばん望んでいるのは、世界ミステリ史に残る金字塔と言ってよいこの四部作が日本で映像化されることだ(クリスティの映像化があれほど話題になるのだから)。一九七八年に『Yの悲劇』がテレビドラマ化され、このときのレーン役は石坂浩二さんだったが、当時はまだ三十台後半だった(時期としては映画〈女王蜂〉と〈病院坂の首縊りの家〉のあいだにあたるので、金田一耕助とドルリー・レーンをほぼ同時に演じていたことになる)。だが、いまの石坂浩二さんこそ、レーンを演じるのにぴったりだと感じているのは、わたしだけだろうか。

『レーン最後の事件』を訳していたころ、角川の編集部と相談して、国名シリーズも新訳しようということになった(ほぼ同じころ、創元でも国名シリーズの新訳刊行が決まったのだが、これはまったくの偶然だった)。新訳の作業をはじめるにあたって、編集者や共訳予定者も交えて打ち合わせをおこない、以下のことが決まった。

(1)刊行間隔をなるべく短くし、読者を逃がさないようにすること。
(2)表紙は過去のものとちがって、美形のエラリイを前面に押し出すこと。
(3)クイーン父子の関係を見直すこと。具体的には、エラリイは父のクイーン警視に「タメ口」をきくことにし、警視は旧訳よりいささか若い印象にすること。
(4)全作の解説をエラリイ・クイーン研究の第一人者である飯城勇三氏に依頼すること。
(5)「国名シリーズ」として、これまで十作目とされてきた『ニッポン樫鳥の謎』(『日本庭園の秘密』)の訳出を見送り、代わりに『中途の家』(『途中の家』)を訳出すること(ただし、この時点で訳出が決まっていたのは第五作『エジプト十字架』までであり、残り五作については前半の売れ行きしだいで見送る可能性もあった)。

(1)については、当初は二か月間隔の予定だったが、さすがにきついので、第三作『オランダ靴』から三か月間隔にしてもらった。前作が書店で平積みであるうちにつぎの作品を刊行するという戦略は、一定の成果を生み出したと信じている。実のところ、第四作『ギリシャ棺』が刊行されるころに第一作『ローマ帽子』の重版が決まり、第五作『エジプト十字架』の刊行とほぼ同時に『ローマ帽子』の二度目の重版と第二作『フランス白粉』の重版が決まったおかげで、後半五作も新訳できることになったのだから。
(2)については、予想どおり賛否両論が沸き起こり、当然と言えば当然かもしれないが、古くからのファンは多くが否定的だった。しかし、SNSなどでいろいろ検索して調べてみると、驚くほど多くの人(おそらく若い層)が「表紙買い」をするか、少なくともこのシリーズに大きな興味を示してくれたのがわかり、この表紙が新しい読者の開拓に貢献していることを確信できた。
 表紙の絵柄に関して、最初はわたしはノータッチだったが、途中からいくつか提案するようになった。第六作『アメリカ銃』のヴェリー部長刑事、第九作『スペイン岬』のデューセンバーグ、第十作『中途の家』のクイーン警視(二度目の登場)などは、シリーズ全体の構成を考えてここしかないと判断して提案したのが採用されている(『エジプト十字架』で推した「プールサイドのエラリイ」は残念ながら却下されたが)。
(3)についても、賛否両論があった。しかし、わたし自身、一読者であったころから、若き日のエラリイは生意気盛りのこの上なく気障な青年であり、そのいけ好かない若者が非の打ちどころのない推理で周囲を圧倒することこそが作品の最大の魅力だと思っていたので、ここは譲れなかった。一九三〇年代という時期の父子の関係にはそぐわないのではないかという見方もあったが、エラリイは随所で父親や年長者をからかうような言動を見せていて、当時としてはいささか非常識なふるまいをしてもおかしくなかったはずだ。
 父親との関係で鍵となったのが、ときどき文中に現れる the old man ということばの解釈だった。過去の訳書では、この語はほとんど「老人」と訳されてきたが、the old man というのは、息子から見ての父親を表すことばでもあり、その場合、父子の精神的な絆の強さを伝えてもいる。シリーズにおいて、この語がクイーン警視を指して使われるのが、ほぼ例外なくエラリイといっしょの場面であることを考えると、これは年齢よりも父子のつながりを暗示しているはずなので、わたしの訳では「老人」ではなく、文脈によって「警視」「父」などと訳し分けている。警視が一人称として、従来の「わし」ではなく「わたし」を使うのも、同じ理由に基づいている。
 ただ、訳文のスタイルを大きく変えたのはその点だけであり、ほかの部分では必要以上に奇をてらったことはしていない。『レーン最後の事件』のあとがきにも書いたとおり、新訳の訳者のすべきことは錆落としや煤払いであって、材質を変えてしまうことではない。新訳の宿命として、旧訳に長く慣れ親しんだ読者がいくらかの違和感を覚えることは避けられないが、どうかご理解いただきたい。
(4)せっかく新訳を何十年ぶりかに出すのだから、充実した解説をつけたかったので、全作について飯城勇三氏に依頼したところ、すぐに快諾してくださった。毎回、長年の研究の成果だけでなく、新しく若い読者を増やしたいというこちらの希望に合わせた内容も盛りこんでくださり、どの作品にも二十ページ程度のくわしい解説が付されることになった。訳出中に何度か疑問点をお尋ねしたこともあるが、「エラリイが乗っていたデューセンバーグの型はなんでしょうか」とか「エラリイの風貌が描かれている作品はほとんどないと思いますが、全作品中で風貌に関する描写があるのはどこでしょうか」といった質問に対しても、たいがい数時間後に(ときには数分後に)メールで返答が来て、驚嘆したのを覚えている。
 飯城さんには、その後、早川書房で『災厄の町』と『九尾の猫』を訳すときにも解説をお願いした。
(5)そもそも「国名シリーズ」という呼称がついたのは日本での翻訳刊行時であって、作者クイーンがそのように呼んでいたわけではない。そんなこともあって、どこまでを国名シリーズと見なすかに関しては、これまでさまざまな議論があった。
 国名シリーズの定義として考えられるのは、まず「タイトルに国名がはいっていること」という当然のものがあるが、そうは言っても、第一作の『ローマ帽子』からして国名ではない(国はイタリアだ)し、第七作『シャム双子』も微妙なところだ。ただ、従来第十作とされてきた『ニッポン樫鳥』は、そもそも原題が The Door Between【イタリック】であり、Japan も Japanese もどこにもない(仮題が "The Japanese Fan Mystery" だったと言われていた時期もあったが、いまでは誤りだと判明している)。そのうえ、原著の刊行時期でも、第九作『スペイン岬』のつぎは『中途の家』であり、『ニッポン樫鳥』はそのあとだ。
 もうひとつ、重要なのが「読者への挑戦状が挿入されていること」である。これについても、なぜか『シャム双子』では抜けているが、第八作『チャイナ蜜柑』と第九作『スペイン岬』では復活し、原著刊行順に言うと、『中途の家』にはあって、『ニッポン樫鳥』にはない。
 飯城さんにも相談したところ、わたしと角川の判断にまかせてくれたので、『中途の家』までの十作の翻訳刊行が決まった。あとはシリーズの呼び名をどうするかだが、『中途の家』はどう見ても「国名」ではないので(『スウェーデン燐寸の秘密』にする手もなくはなかったが、作中の前口上を再読して、それは避けるべきだと判断した)、整合性をとるために「国名シリーズプラスワン」と呼ぶことにした。
 ありがたいことに、レーン四部作も国名シリーズプラスワンも、小刻みではあるものの、いまも重版がつづいている。

 国名シリーズプラスワンの訳出がまだ終わっていないころに、早川書房から中期の傑作『災厄の町』『九尾の猫』の新訳の話をいただいた。『災厄の町』はクイーン作品のマイベストワンであり、『九尾の猫』もいま読んでもまったく色あせていない名作だと思っているので(ハロウィンの渋谷であの事件が起こったらと思うと戦慄する)、うれしいかぎりだった。
『災厄の町』については、ある一点について、旧訳から重大な改変をおこなったのだが、それについては訳者あとがきを見ていただきたい(未読のかたは読了後にお願いします)。この変更によって、味わい深い名作の持つ深みと苦みがさらに増したと信じている。
 そして『九尾の猫』については、実はまだだれからも指摘されていないのだが、国名シリーズから方針を変えて、(旧訳と同じく【ヽヽヽヽヽヽ】)エラリイが父の警視に対してていねい語で【ヽヽヽヽヽヽ】話している。これは、生意気な若造だったエラリイが、ライツヴィルの町での幾度かの苦しみを経て成長したことを示すためだ。とりわけ、直前の『十日間の不思議』での大失敗によって、人間としてひとまわり大きくなったはずだ。
 そう、その意味でも、本来なら『九尾の猫』はなんとしても『十日間の不思議』と合わせて読んでもらいたい。できることなら、その前の『災厄の町』につづくライツヴィル・シリーズ第二作『フォックス家の殺人』も読んでもらえれば、人間エラリイが推理の鋭さを保ったまま徐々に謙虚になっていくさまが手にとるようにわかるはずだ。現状では『フォックス家の殺人』と『十日間の不思議』は電子版以外は入手がむずかしい状態だが……そう……そこで……どうでしょうか、早川書房さん……この際、ぜひ、ひとつ……いや、ふたつ……
 ともあれ、読者のみなさんには、まずは『災厄の町』と『九尾の猫』を応援していただきたい。未読ならすぐに読んでもらいたいし、既読なら周囲の人たちにがんがん勧めてもらいたい。中期・後期の作品についても、若い読者、新しい読者と末長く語り合える機会をたくさん作っていきましょう。
 エラリイ・クイーンは永久に不滅です。

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