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【創作大賞2024恋愛小説部門】泡沫の微熱1 契約①

<あらすじ>
「僕と契約しましょう。利害は一致しているはずです」
求人事業を展開する会社で働く梁川茉以子(29)が、大手企業の後継者である佐野貴介(35)と交わした契約は、期間限定の結婚。 条件は、失踪した互いの兄弟を見つけるまで。すべてが解決したときには関係を解消することを約束し、愛などないはずの結婚生活が始まった。
「この結婚には終わりがある。なにも心配しなくていい」
「想いを秘めたまま、静かに終わりを迎えられますように」
遠い昔に一目惚れした彼との、秘密だらけの契約結婚。ふたりが辿る道に待つ幸せは──

「泡沫の微熱」あらすじ


「後悔していませんか?」
 札幌駅北口すぐのタワーマンションの二十五階、西側の角部屋。ひとたびリビングに足を踏み入れれば、燦然と輝く札幌の夜景が視界いっぱいに広がった。一部屋余っているので自由に使ってください。そう提案されていたとおり、パウダールームの向かいの部屋の前には、段ボール箱が数箱積まれている。
 結婚して新生活を始める──普通であれば浮き足立つに違いない展開なのに、私と彼の間で交わされたやり取りは終始事務的で、ビジネスの延長のようだった。

「後悔、とは?」
「僕の妻になったこと」
 部屋が余っているのなら、寝室だって別でいいのに。無駄なものが一切置かれていないリビングをぐるりと見渡して、ばれないようにため息をつく。白く毛足の長いラグの上にはガラス製の丸いローテーブル、その後ろには黒い革張りの三人掛けソファー。驚くことにテレビは見当たらない。バルコニーに続く掃き出し窓のすぐ側にL字型のデスクがあり、脇にはぎっしりと本が詰まった書棚が置かれている。仕事用スペースのようだ。
 まるで生活感がなく、彼が忙しく行き来しているだろうと思われるのはデスクの周りのみ。白っぽいフローリングの上には、髪の毛ひとつ落ちていない。

「それを言うなら、貴介きすけさんも後悔していませんか? わたしを妻にしたこと」
「していない」
 即答されて胸が跳ね上がったのと同時に、どう答えるべきか考えあぐねた。
 今のわたしは、昨日までのわたしとは違う。梁川やながわから佐野さのに姓が変わり、高層階からの見事な眺望に圧倒されながら、ほぼなにも知らない男性と生活を共にする。思い切った決断をしたものだと呆れるたびに、うまく言い表せない緊張感が全身を包み込む。それはもちろん、今も継続している。

「わたしも、していません。お互いに目的を達成するまで、どうぞよろしくお願いします」
「契約とはいえ妻として、どこまでの務めを果たしてくれるつもり?」
 彼はにこりともせず、上質なグレンチェックのネクタイを鬱陶しそうに振り解いてソファーの背に凭れかけた。そんな些細な動作ですら、どこか上品で美しい。
「貴介さんの思うままに」
「酷くしてもいいと?」
「ご所望なら」
「顔に似合わず積極的だよね、あなたは」
 続いてベストを脱ぎ、ネクタイに被せるように掛ける。ワイシャツのボタンを外しながら不敵な笑みを浮かべ、こちらに三歩ほど近づいてきた。
「本当に酷くするよ」
「そんな人じゃないっていうのは、なんとなくわかっています。それと」
「それと?」
「僕、って一人称をやめてください。わたしの前では、俺、でいいです」
 意を決して顔を上げると、貴介さんは呆気に取られたような表情で私を見ていた。今日、初めて顔をまともに見た気がする。

「それは、あなたを妻らしく扱えって意味?」
「気を遣う必要はありませんって言ってるんです。なんでも嫌味っぽく捉えないでください」
 荷物を片付けます。そう言って背を向けた瞬間に抱きすくめられ、ハンドバッグを床に落としてしまった。「あの」「先にこれを」──彼が私の目の前に差し出したのは一枚の紙だった。ついさっき、区役所に提出してきたものとよく似た作りの。
「これって」
「離婚届。来たる日に向けて準備しておきたいんだ」
 ゆっくりと開くと、「夫」の欄にはすべてが記載されていた。手の震えを止めるように握られ、「茉以子まいこも、書いて」と抑揚のない声で囁かれる。じっとりとした汗でそれが皺になってしまわないうちにと、小さく頷いた。胸が、締めつけられるように苦しい。

「この結婚には終わりがある。だから、なにも心配しなくていい」
 ふらふらとガラステーブルまで誘導され、スーツの胸ポケットに挿さっていたペンを手渡される。まるで機械のように記入していく間、ガリガリと鈍い音が殺風景な部屋に響いた。端正な字の隣に並ぶ、丸みを帯びた字が恥ずかしい。穴が空くほど見つめられているから、なおさら。
「なにも心配しなくていい。あなたを、悪いようにはしない。俺の目的が先に達成されても、途中で放り投げたりはしない」
 書き終わるや否や今度は真正面から抱きしめられ、バランスを崩してラグの上に倒れてしまった。そんなことはお構いなしだと言わんばかりに覆い被さってきた彼の左手薬指には、がっしりと存在感のある真新しい輝きが踊っている。
「茉以子の指には、俺が」 
 左手の薬指を、慣れない感触が伝っていく。真っ白な天井に映えるように光るそれは、メレダイヤが一周埋め込まれているフルエタニティリングだ。
 控えめな輝きを放つそれをじっと眺めていると、彼が指を絡ませてきた。驚くほどつめたい指。それと裏腹に、放っている体温は高い。消えかけたムスクと煙草の匂いが、執拗に薫ってくる。
 指だけでなく視線も絡ませ合い、どちらからともなく唇を重ねた。子宮の奥が大袈裟に疼き、熱がじわりと広がっていくのを自覚する。欲は正直だ。心の中がどうであろうと、こうやって身体の外に出てきてくれる。

「僕と契約しましょう。利害は一致しているはずです」

 ふた月前、八月上旬の蒸し暑い夜だった。深夜一時、皺ひとつなかったはずのシーツはすっかりよれている。重みのある掛け布団で顔の下半分までを覆い、「契約」と乾いた声で鸚鵡返しをする。
 ほぼ初対面と言ってもいいくらい、わたしはこの人を知らない。そんな人とついさっきまで身体の奥で繋がり合っていたのだけど、それでもやっぱり、知らないに等しい。

「セックスの前にしていた話の続きです。率直に言います。僕と結婚してもらえませんか」
 美しくしなやかな背筋だと見惚れていたところだった。突然のプロポーズに驚かない自分に驚きながら、「結婚」とまたもや鸚鵡返しをする。
「僕は瑠璃るりと結婚するつもりはない。だけど、このままではそうなってしまう。万一そうならなくても、父が見繕ってきたよく知らない女と結婚することになる。最悪の展開です」
 彼は汗でしっとりと濡れた背中を曲げて冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、喉を鳴らしてごくごく飲んだ。今度は、小刻みに蠢く喉仏に見惚れてしまう。

「わたしは佐野さんにとって、よく知らない女ではないんでしょうか」
「すべては知らないけど、まったく知らないわけではないと思います。彼女役、完璧にこなしてくれたし」
「……瑠璃さんのことは」
「瑠璃は、兄の恋人です。僕が介入する余地などない。昔からずっと」
 端正な顔が不器用に歪み、ときめきではなく痛みが走った。先ほどパーティー会場で会った、すっきりとしたショートカットの女性を思い出す。
 綺麗で明るく話しやすい、男性からも女性からも好かれる典型のような人だった。一見して地位の高いお偉いさんばかりが集まる豪華なパーティー会場を七センチヒールで颯爽と歩き、誰とでも分け隔てなく会話を楽しみ、成長著しい大企業の跡取りとも称されるこの人を「きーくん」と呼んでいた。その瞬間に、勝てない、と察した。

「そもそも、あなた、結婚したいんでしょう。あんなところに来ていたんだから」
 呆れ返ったような視線を向けられ、思わず顔を背けた。ほんの出来心だったんですが、と布団に潜って小さく返す。
 同僚の高瀬たかせつばきと婚活パーティーに参加したのは、ちょうど夏至のころだった。わたし自身は恋などするつもりも権利もないわけで、ただ単純に、なかなかうまくいかない彼女の恋にもどかしさを感じて起こした行動だった。そこで出会った誰かとどうにかなろうとは、微塵も考えていなかった。 
「あなたのような女性がいるから、僕みたいに真面目に参加した男が困るんですよ」
「佐野さん、本当にあんなところで相手を探そうと考えてました? 到底そうは思えないんですけど」
「もちろんです。だからあなたに声を掛けた」
 すらりと言ってのけ、中身が半分ほど残ったペットボトルをサイドテーブルに置くと、わたしのすぐ近くに腰かけた。彼の重みでベッドが沈む。汗とムスクが混じった、男らしい匂いが鼻をつく。
「とにかく、あれに参加したのはつばきのためだったんです。わたし自身は恋愛する気も結婚する気もありません。……できない、んです」
 最後のひと言は余計だったかと、口に出してから後悔した。彼は「できない、ねえ」と思案げに顎をしゃくり、視線を宙に彷徨わせている。
「僕と結婚するにあたって関係がありそうなので、詳しく聞いておいてもいいですか」
「結婚を承諾した覚えは」
「期間を決めましょう。終わりのある結婚なら承諾してもらえませんか。お互い、バツイチになりますけど」
 黙って聞いていれば、夢もときめきも現実味もないことをつらつらと──ため息をつきたくなったが、憤慨する気にはなれなかった。飄々とした態度でごまかしているつもりだろうけど、この人はこの人で相当焦っているらしい。

「この人」──佐野貴介さんが働く株式会社SANOは、北海道内でスーパーマーケットなどの小売事業を展開する流通グループ「SANOグループ」の統括会社だ。当初は道央中心に中規模のショッピングセンターを展開していたが、近年では「全道展開」を謳うに相応しく、地方への進出が目覚ましい。安さよりも高品質とオリジナル性の高い自社製品で勝負しており、他の競合企業とは一線を画している印象だ。
 SANOがここまでの成長を遂げたのは、現社長の力がかなり大きいという。前身の佐野商店からSANOへ法人名を変え、事業規模の拡大を始めたのは三十年前ほどのこと。それからまもなく、佐野さんの祖父である前社長が退き、現社長へと実権が移った。ちなみに現社長は、佐野さんの父親である。

 ──というのは、先日つばきが書いた記事の受け売りだ。わたしが働く会社では主に求人事業を展開しており、求人情報誌の発行や求人サイトの運営、学生向け合同企業説明会や社会人向け転職セミナーの開催などを行なっている。つばきのような外勤営業職の人たちが様々な企業を回って商談を行い、広告を作成したり契約を取ってくる間、わたしのような内勤営業職の者たちが彼らの不在時の電話の取次や広告の原稿チェック、他部署との仲立ちなどのサポートを行っている。
 これまで詳しく知ることのなかったSANOの歴史や沿革は、つい先日発行の求人情報誌に掲載されたピックアップ記事に網羅されていた。一読して胸の中がさざめき、もう一度読み返して、古い記憶と淡い恋心がフラッシュバックした。

「他を、当たってください」
 美しい切れ長の目がすっと細まった瞬間、胸がきゅっと狭まった。この人に結婚を迫られる日が来るなど、いったい誰が想像しただろう。
「他はいません。あなたしか」
 わたしの手を包み込んだ手のひらは冷えていた。効きすぎているエアコンとミネラルウォーターのせいだ。
「無理、です」
「悪いようにはしません。部屋がひとつ余っていますから、新居を探す必要もありません。仕事を辞めたければ辞めてもいいし、欲しいものは遠慮なく言ってください」
「そういうことじゃないんです」

【2〜36話】


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