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【創作大賞2024恋愛小説部門】泡沫の微熱35 相愛②

【前回のお話】

【1話目】

「おまえは真面目なくせに不器用で脇が甘くてもどかしいけど、羨ましいと思うところもたくさんある」
「なんだよ、それ」
「自分の欲しいものを手に入れようとするときに踏み止まれる堅実さって、つまんねえけどトップには必要な要素だよ。おまえには素質がある。器もある。心意気もある。足りないのは、勇気と勢いだ」
 真夜中の薄暗いリビングに、兄貴の諭すような声が響いた。つい数日前までそこに座っていた愛おしい姿はない。可愛らしいルームウェアを着てキッチンに立ち、「貴介さん」と微笑む姿も。
「茉以子ちゃんの言葉の意味、行動の意味、もっとちゃんと考えてみろ。あの子だって、死にそうな思いで決断したはずだぞ」
「……兄貴」
「おまえを嫌いになったから姿を消したと思ってんのか?もしそうならどうせ全部うまくいかねえから、このまま一生臥せってろ」

 行き詰まったときは、過去を振り返るのではなく未来を思い描くといい。
 ただでさえうまくいっていないときに過去を憂いたってなにも生まれない。仕事ではよく使う手法だが、プライベートでは初めてだ。
 俺はなにが欲しいのか。誰と、どう生きていきたいのか。五年後、十年後、二十年後、どんな自分になっていたいのか。
 何通りの未来を描こうと、隣には必ず茉以子がいる。あなたがいない未来なんて、人生なんて、想像しようとも思わない。
 ただしまい込んでいるだけの宝物になんてさせない。思い出の中だけのあなたなんていらない。俺が描くのは、あなたの隣で夢に向かって進んでいく未来だ。

 一昨夜外したきりデスクの上に置きっぱなしだった結婚指輪を手に取り、まじまじと眺めてみる。いくつもの細かい傷に彼女との日々を思い出し、柄にもなく胸をときめかせながらこれを選んだ日が蘇る。
 茉以子が初めてこの部屋にやってきた日、少しでも喜んでほしいと期待して渡したが、彼女はただただ目を丸くしているだけだった。それでも、悩み抜いて選んだそれが細く美しい指に嵌まっているのを見た瞬間、柔らかな喜びが込み上げた。

 朝日が昇っていく。昨日よりもはっきりとした輪郭の太陽が、朝の始まりを告げる。
 雪解けの気配を漂わせながら、札幌の一日が始まっていく。あなたはきちんと眠れているだろうか。もし眠れないほど俺に会いたいと思ってくれているなら、最高に嬉しいのだけど。
 器用にソファーに収まって眠る兄貴を見ると、自然と口元が緩んだ。ありがとう、と面と向かっては言いたくないから、簡単な朝飯でも作っておいてやろう。今度こそ、焦がさずに目玉焼きを作れる気がするのだ。

「三日間も無断欠勤するとはどういうことだ。おまえは、人事部長という自分の立場を分かって」
「申し訳ありませんでした。以後、二度とこのようなことがないように気を引き締めます」
 先手を打つように頭を下げると、父さんが言葉を飲み込んで鼻を鳴らした。なにか言ってやりたいが、なにから言えばいいのか図りかねている──そんな顔だ。
「だいたい、こんなに早くからどうしたんだ。始業まで1時間半もあるぞ」
「今日は、次期社長候補としての提案と、あなたの息子としての決意を伝えに来ました」
 張り詰めた社長室の空気に怯む必要なんてない。俺はあなたに、これからどう生きていくかを話したいだけだ。

「まずは専務昇格の件ですが、一切の条件をなしに認めていただきたい。現在の業務については今月中に整理します」
 暦は明日から三月に変わる。年度替わりまであと一月──その間に処理できるものはすべて終わらせ、懸案事項や継続事項については然るべき人間に引き継ぐことにした。次期担当者のリストアップも済んでいる。
 通常業務の傍らで進めるため帰れない日も多くなるだろうが、茉以子がいない家などただの寝床でしかないので構わない。
「また随分と勝手な話だな。いいか? おまえは、俺に条件を突きつけられる立場には」
「今後の経営方針についての検討資料を作成しました。これを見ていただければ、社長が水面下で計画していた競合企業の買収計画がどんなに無意味で無謀なものか理解してもらえるかと」
 昨日の朝、俺が丹精込めて作った目玉焼きを「なんだこれ、消し炭かよ」と言いながら平らげ、兄貴は早々と帰っていった。それからすぐデスクに向かい、考えつく限りのパターンを作成した。
 買収計画については、副社長から仕入れた情報だった。こんなものは釈迦に説法であるとわかっている。数年間の店長経験を経て財務部に長く在籍したのちに役員昇格を果たし、現場も内側もSANOのすべてを知り尽くしているただ唯一の人間──それが現社長であり、俺の父親なのだ。
 資料を作りながら、ふと「必死だったんだろう」という思いが落ちてきた。哀れみや同情にも似ているが少し違う。父さんもまた、守りたいものをうまく守れない不器用さを持ち合わせているのかもしれない。

「父さん」
 今日こそは腹を割って話し、俺が望む回答を引き出してやる。そんな思いを込めて呼んだ。
「父さん、俺は絶対に離婚しない。血筋とか後継なんてどうでもいいんだ。ただ、茉以子と生きていきたい。俺にとっても大切なこの会社を担っていく姿を隣で見ていてほしい。父さんは、母さんと結婚するとき、この人と一緒にいたいって少しも思わなかったのか」
 ずっと、冷え切った夫婦関係だと信じて疑わなかった。仕事以外の話をしている記憶がないし、ふたりで旅行に出かけたこともないだろう。それでも、別れるという選択をせずに今日まで関係を継続しているのは、もっとシンプルな理由があるんじゃないのか。
「少しも好きだと思わないのに結婚したのか。もしそうだとしたら、父さんと母さんは狂ってる」
「そんなわけがないだろう!」
 らしくなく声を荒げ、自身のデスクを思い切り叩く姿に人間らしさを感じた。反りが合わないことを理由にまともに会話をしてこなかったツケが積もりに積もって、俺たちの溝は想像以上に深まっていた。
 そんな中で結婚を認めてほしいだの会社を継ぎたいだの、いったいどの口が言えたのだろう。最も近しい家族から逃げ続けてきた俺が、新しい家族を築こうなど──。

「認めてくれとは言わない。だけど、許してほしい」
 こちらを向こうとしない父さんから一歩退き、腰を折って頭を下げた。お願いします。上擦った声が社長室に響く。
「茉以子と生きていくことを、許してください。父さんにも副社長にも祝福してほしいんだ。俺たちが幸せになる姿を見ていてほしい」
 父さんはなにも答えない。晴れた朝の雪景色を眺め、頷きもせず黙っている。
「この人じゃないとだめだ。そういう感覚、父さんにもあるだろう? だから、母さんとずっと一緒にいるんだろう? 仕事のできる母さんを専務に据え置いて、都合のいい右腕みたいに使ったりして」
「貴介、口が過ぎるぞ」
「それを非難する気はない。愛の形なんて人それぞれだって、茉以子に気付かされたから」
 今は俺の元を去るのが最善だと考えた──と、思うことにした。次に会ったら、離婚届はやりすぎではないかと言ってやるつもりだ。

「父さんの、愛は」
 自分を取り巻いてきたいろいろな出来事たちが、頭の中で渦を巻く。
 天才と称された兄貴に引け目を感じ、捻くれていた高校時代。厄介なすべてから逃げ出し、自堕落な生活を送っていた大学時代。そして、胸の中に空洞を抱えたまま東京で四年間の社会人生活を送り、父さんに呼び戻されてUターンした。
「愛は、間違っていない。だけど、伝え方を間違えすぎている、と思う」
 なぜ俺を呼び戻した? 俺は父さんにとって、出来の悪い落第生の次男だったんじゃないのか。
 いつかお義母さんと話した夜が蘇る。将来は息子に任せます。それが俺と兄貴のどちらを指していたのか、はたまたどちらも指していたのかは謎のままだ。だけど、嬉しそうにそう言っていたという姿は本物だと信じたい。

「愛は、伝わらないと意味がないよ。俺は、茉以子もSANOも、一緒に働いているみんなも、兄貴も、母さんも──父さんのことも、愛してる。それぞれ形は違うけど、ひとつも欠けてほしくない」
 目の前にいるこの人も人間なのだ、と清々しい気持ちになる。物心ついたころからろくに家に寄り付かず仕事ばかりしていた父さんは、いったいなにを守ろうとし、なにに愛を注いでいたのか。それは、家族の存在を引き換えにしなければならないほど大切なものだったのか。
「俺は死ぬまで茉以子を愛し抜くし、なにがあっても守り抜く。すぐに許してもらえなくとも絶対に譲らない」
 失礼します。もう一度腰を折って社長室を出て行こうとする俺の背中に、「貴介」と弱々しい声が投げられた。聞いたことのない声色に薄気味悪さを感じ、またなにか良からぬことを──と振り向いたが、父さんは口を閉ざしている。

「父さん?」
「……おまえの、妻は」
「え?」
「茉以子さんは、強い子だな。千鶴といい勝負かもしれない」
 父さんが気の抜けた笑みを零し、さっさと行け、と手をひらひらと振った。その言葉の意味を知った瞬間、俺は激しい自己嫌悪に襲われることになる。

【次話】


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