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【創作大賞2024恋愛小説部門】泡沫の微熱32 清夏①

【前回のお話】

【1話目】

 季節は残酷なほど確実に巡る。身も心も凍らせるような冬が過ぎ、路肩に積まれていた雪が少しずつ溶け、美しく開花したと思えばあっという間に葉桜に変わり、太陽がじとじとと存在感を増してくる。

 夏は、思い出の季節だ。
 十数年前の、炭酸水のような夏の一瞬。そして、思い出を塗り潰すように身体を重ねた、仄暗い夏の夜。あなたとの思い出は冬だけではなかったと、まだ真新しい傷跡が軋む。
 うだるような、夏。蝉の声と暑さが身を溶かしてしまいそうな、夏。
 わたしは今日もあなたを思い出す。感触、声、匂い、存在そのものを、つい昨晩まで抱かれていたような生々しさで思い出す。
 そして、清々しく青い夏の朝を見詰めながら祈り続けている。どうかあなたが、今日も幸せに生きていますようにと。

「梁川、原稿できてるか?」
「うん。昨日のうちに終わらせたから。送る?」
「頼むわ。あまり無理すんなよ」
 隆平くんが自席に戻るや否や汗が染みたワイシャツの襟元をばたつかせ、「あー、暑くて死ぬかと思った。事務所マジ天国」とうちわで豪快に仰げば、「ちょっと、だらしないからやめなよ」とつばきに一喝される。
 ふたりのケンカはもはや日常茶飯事で、周囲のわたしたちも慣れたものだ。相変わらずのやり取りにくすくす肩を震わせていると、机上のスマホが短く鳴った。

「もう、また過保護」
 すっかり見慣れたメッセージの送り主にため息しか出てこない。大丈夫だよ、と何遍言えばわかってもらえるのだろうか。いや、わかろうとする気がないのかも。
「凪くん?」
 何気ない呟きをすかさず拾われ、思わず飛び退いてしまった。「びっくりした」と目を見開けば、「やだ、ごめん。驚かせるつもりじゃ」とわたしの右横に立つつばきが慌てふためいている。
「今ので茉以子がイスからひっくり返ってたらと思うと……ああ、ほんと気をつけなきゃ。ごめん」
「もう、つばきも過保護」
「過保護なくらいがちょうどいいの。ひとりの身体じゃないんだから」
 頼もしくしっかりした親友は、いつからわたしの母親になったのか。思わず苦笑いを漏らすと、「わたしは真剣なんだけど」と彼女が小さな唇をむっと尖らせた。

「梁川、あと一時間で定時だから帰っていいぞ。係長には俺が言っとくから、ほら」
  追い出されるように事務所を出ると、廊下には湿度の高い熱がこもっていた。どうも空調の調子が悪いらしい。長居は無用だと、到着していたエレベーターに急いで乗り込む。体調を気遣ってくれるのはありがたいけれど、定時まで働けないほど辛いわけではないのに。
「……ほんと、みんな過保護」
 傾いてきた陽が差し込む無人のロビーの向こうに、ガラス窓にもたれかかる影が見える。ため息をひとつついてゆっくり自動ドアをくぐると、その影の主が不機嫌そうな顔でこちらを睨みつけてきた。
「どうして怒ってるの」
「茉以子がまた、迎えに来んなとか言うから」
「自分で帰れるもん。地下鉄でたった三駅だよ」
「そういう問題じゃない」
 差し出された手を払って、手すりに掴まりながら五段ほどの階段を降りた。いくらなんでもここまで過保護にされては、数ヶ月後が不安になってしまう。今とは比べものにならないほど、忙しなく大変な日々が待っているのだから。

「仕事が早番のときは迎えに来るから。前みたいに具合悪くなられたら困るんだよ」
「大げさだなぁ。体調がすぐれない日があるのは当たり前でしょ」
「じゃあ、せめて実家に帰れ。でかい腹抱えてひとり暮らしなんて」
「臨月に入ったら帰るってば」 
 振り切るように歩き出そうとしたわたしの腕を掴み、「いいから乗れって」と舌打ちでもしそうな勢いで毒づく。わたしの弟は、いつからこんなに口うるさくなったのだろう。
 会えばしかめ面で説教ばかり、「あれするな、これするな」のオンパレード。下手をすると両親よりも厳しいし、逆にこちらが心配になるほどさまざまなものを恐れている。自分には直接関係のないことだというのに。
「茉以子、後部座席に」
「わかってる。凪、いつにも増してうるさい」
「ほんとに言わねえつもりなのかよ。佐野さんに」
 エンジンをかける直前、いつもの問いを飛ばしてきた。だから、胸の鈍い痛みに気づかないふりをして平然と答える。言わないよ。もう、毎日のように同じこと訊かないで。

「創業家の一員という立場にプレッシャーを感じることはないですね。それで仕事の質が変わるわけではありませんから」
「専務という役職に就いてから見えるようになったものもありますが、反対に見えにくくなったものもあります。現在、抜本的な人事改革の推進に向けて動いている最中です」
「ほとんど役員室にはおらず、店舗か社内の各部署を回っています。関東への出張も増えました。現場に始まり、現場に終わる。現場から教わることは限りなくあります。今後も現場の声を生かしながら、SANOというスーパーマーケットをより進化させる取り組みを打ち出していきたいですね」

 久々に貴介さんの姿を見たのは、ぐずついた天気が続く六月の朝のことだった。
 いつかはこんな日が来るかもしれないと契約した朝刊紙の地方欄、「マチの旬な人」というコーナーに顔写真付きのインタビューが掲載されていた。
 髪を七三に分けてオールバックにセットし、見覚えのあるダークグレーの高級スーツを纏っている。記憶の中よりも痩せたように見える彼は、すっかり「次期社長」の貫禄を漂わせながら、意気揚々とSANOの未来について語っていた。
「株式会社SANO 専務取締役兼人事改革推進室統括マネージャー、かあ……」
 なんと長い肩書きだろう。つい口元を緩めながら、日々少しずつ膨らんでいくお腹に手を当てた。ほんとに手の届かない人になっちゃったね。お腹の中の、小さな小さな命に話しかける。
 当時は妊娠五ヶ月──やっと安定期に入ったころだった。

 *

 古びたホテルから逃げるように去り、一両編成の普通列車と特急列車を乗り継いで札幌に帰り着いたときには、お昼をとうに過ぎていた。
 マンションの駐車場に彼の車がないことを確認し、まとめておいた荷物を取りに部屋に向かった。玄関に足を踏み入れた瞬間、ふたりで暮らした空間の匂いが迫ってきて膝から崩れ落ち、嗚咽が漏れた。
 何日かビジネスホテルに泊まり、その間は有給休暇を取った。できるだけ駅近の、すぐに越せるマンションを探した。ほぼ身ひとつで住み始めたときには、三月に入っていた。
 年度末ということもあり、珍しく残業が続いていた。ひとりぼっちの生活にとてつもない空虚感を感じながら、日々を必死に生きていた。彼からの連絡は一度もなかったし、もちろんこちらからもしなかった。何度も連絡先を削除しようとしたけれど、どうしてもできなかった。

 三月末のある朝、激しい目眩と腹痛に襲われた。次の日になっても、その次の日になっても体調は戻らず、毎月来るはずのものが来ていないことに気づいた。期待と不安を半分ずつ抱えて産婦人科を受診すると、妊娠六週だと告げられた。
 頭が真っ白になった。渡されたエコー写真には小さな袋が写っているだけで、これが命の片鱗だとはとても信じられなかった。僅か一センチほどの姿を確認できたのは、それから二週間後の受診のときだ。
「心拍が確認できました。赤ちゃん、元気ですよ」
 医師に微笑まれた瞬間、妊娠を告げられた日から溜め込んでいた涙が一気に溢れた。看護師に通された別室でしばらく泣き続け、病院を出るころにはアイメイクはすべて落ちていた。

 わたしは、この子を産んでいいのだろうか。
 漠然とした問いが頭をもたげ、エコー写真を眺めるたびに説明できない感情が込み上げた。身体を折り畳むように胎嚢に収まる姿は人間には見えず、だけど確かに生きていて、この世に存在するどんな万物よりも愛おしかった。
 これが、わたしと貴介さんの子ども。奇跡の重なり合いでここに宿ってくれた、かけがえのない命。産んでいいのかと頭では考えていたけれど、心は最初から決まっていた。モニターに映し出された、小さな小さなあなたに出会った瞬間に。

 母子手帳の交付を受け、その足で実家に向かった。妊娠十一週──五月に入ってすぐのころだ。
 貴介さんと別れた今、わたしはこの子をひとりで産み、育てていかなければならない。大変な道のりになることを覚悟したとき、家族に黙っておくのは得策でないと考えた。
「茉以子が……妊娠? 本当なの?」
「おめでとう。今日、貴介くんはどうしたんだ? 仕事が忙しいのか?」
「ううん。わたしたち、離婚するの」
 声が震えた。貴介さんとの間にあったことや現在の状況を話しているうちに涙の洪水にさらわれ、落ち着いたころには日が暮れかけていた。
「どういうこと? 詳しく説明して」
「本当ならもう、とっくに成立してるはずだったんだけど」
 俯いてぼそぼそと答えるわたしに、「結婚も離婚も、親になんの報告もなしに」とお母さんが目を吊り上げる。凪は呆気に取られてひと言も発さないし、お父さんは般若の如く怒り狂うお母さんを宥めるのに必死だ。

「貴介さん、離婚届を提出していないみたいなの」
 ぽつりと零すと、吸い込まれたようにお母さんの文句が止まった。そうなの、と気の抜けた声で問い返され、小さく頷く。
 わたしと彼はまだ、戸籍上では夫婦らしかった。諸々の手続きに必要だと住民票を取りに行ったときに発覚し、おそらく現在も継続している。だから、家の契約名義は「佐野茉以子」、保険証も母子手帳も「佐野茉以子」のままだ。
「離婚する気、ないんじゃねえの」
 ようやく口を開いた凪のため息混じりのセリフに、あの冬の朝を思い出した。裸で眠る貴介さんを包むように布団を掛け直し、ざらついた頬をひと撫でしてから部屋を出た。廊下のすえた匂いが胸の容量をあっという間にいっぱいにし、しばらくそこから立てなかった。
 身を引きちぎるような決断をした──はずだった。激しい喪失感に襲われているのは彼も同じだろうから、どうか少しでも夢に向かって進んでほしいと願うばかりだった。それなのに、なぜ。

【次話】


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