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【創作大賞2024恋愛小説部門】泡沫の微熱23 道標③

【前回のお話】

【1話目】

「奥さん、なんていったっけ。名前」
茉以子まいこ
「いくつ?」
「二十九。俺の六つ下」
「ずいぶんと若い子貰ったな」
「余計なお世話だ」
「よかったな。俺が知ってるおまえの中で、今が一番幸せそうに見えるよ」
 兄貴は? そう訊き返そうとして、やめた。それをいまの兄貴に問うのは、あまりにも意地が悪い気がしたから。

「これから、どうするんだ?」
「なにが?」
「会社に戻る気はあるのか?」
「ないよ」
 あっさりと即答され、口に放り込んだばかりのチーズを丸呑みしそうになった。予想はしていた。だが、一秒の間も空けることなく答えられると拍子抜けを禁じ得ない。
「SANOには、今後の選択肢のひとつとして入ったに過ぎない。一生スーツ着てデスクワークなんてつまんないだろ」
「兄貴はいつも外勤してたけどな」
「あんな偉そうな席に座ってるとおかしくなりそうなんだよ。おまえ、よく耐えられるよな。人事部なんて」
「好きでいるわけじゃない」
 苛立ちに任せて、チェダーチーズの包みを剥がす。人事部長として兄貴の処遇を決めないといけない俺の身にもなれよ。

「父さん、俺のことはもう諦めてると思うぞ」
「は?」
「黙っていなくなった時点で俺に継がせる線は消えてる。あの人、その辺はシビアだから。おまえと瑠璃の結婚を目論んだのは無理があるけどな」
 兄貴はけらけらと笑いながらボトルを持ち上げたが、中身は数滴しか残っていないようだ。次日本酒行こうぜ、と千鳥足でキッチンに向かい、吊戸棚から見事に大吟醸を探し当てる。
「だってほら、瑠璃は俺が大好きだろ」
「自分で言うな。俺が瑠璃との結婚を受け入れたら、どうするつもりだったんだ」
 乾杯を促されて仕方なくグラスをぶつけ合った。兄貴はその問いに驚くこともなく、平然と頷いて顎をしゃくる。その心は、相も変わらず読めない。
「そのときは、瑠璃がおまえを受け入れたと飲み込むつもりだった」
「なんだよそれ。先に捨てたのは兄貴のほうだろ」
 思わず荒げた声が、ダイニングどころかリビングにまで響き渡った──気がした。高価な調度品ばかりが並ぶリビングは寒々しく暗い。氷点下の暗闇を降り落ちる雪が、家の中までしとしとと侵食しているようだ。

「捨てた、か」
「この一年、瑠璃がどう過ごしていたか知らないだろ。気の強いあいつが、あんなに泣いて」
「人間、そんな簡単に死なねえよ。貴介が優しすぎるから、瑠璃もいい気になってたんじゃないの」
「どの口が言ってんだよ。会社も瑠璃も放り出して、自分のためだけに逃げておいて」
「自分のために生きるのは悪いことか? おまえは、未だに周りの顔色を伺いながら生きてんのか? 仕事も、結婚も」
 誰のせいで──。拳を握り締め、歯を食いしばった瞬間にふと気づく。今の俺が手にしているのは、すべて自分で選び取ったものじゃないか。
 家族と瑠璃から逃げるように上京し、父さんに呼び戻されてSANOに入った。今後の自分を明確に描けないまま走り続けているうちに、兄貴が失踪した。傷ついた瑠璃を支えた。あわよくば、という気持ちを抱いた夜がないことは、なかった。それでも、目の前にいる女を自分のものにする想像は少しもできなかった。
 そして今、俺の隣には茉以子がいる。ひと夏の辿々しい初恋を叶えたとはいわない。それでも俺は、俺の意思で彼女に声をかけ、契約結婚を持ちかけた。

「なにかを得たいと考えるとき、俺はまず、なにを手放せるかを考える」
 静かな声だった。特徴的なカットが施された小さなグラスを取ってゆっくりと喉に流し込み、「ああ、美味いな」と噛み締めるように零す。
「捨てるわけじゃない。だから、手が空いたら取りに戻ればいい」
「……瑠璃が、そうだっていうのか?」
「人が一度に持てる荷物の量は決まってる。俺はずっとそうやって生きてきたし、このやり方しか知らない」
 得たいと思ったものを自由自在に取り込み、なんの苦難も苦労もなく手に入れていると思っていた。
 少なくとも、俺が見てきた兄貴はそういう人間だ。物心がついたころには「天才」と持て囃されていたし、できないことなどないのが当たり前だった。
 素直に憧れていた時期もあった。あらゆる場面で追いつこうとしたが、早々に無理だと悟った。兄貴という道標はあまりにシンプルで飾り気がなく、だからこそいつまで経っても辿り着けなかった。

「じゃあ、どうして婚約なんかしたんだ。外堀を埋められていようが瑠璃にせがまれようが断れよ。兄貴こそ、周りの顔色伺ってんだろ」
 酒は、怖い。心の中の、物凄く深いところに沈めておいた本音をいとも簡単に炙り出す。
 俺の人生は、兄貴の影に振り回されてきた。
 貴紀なら、お兄さんなら──幾度となくそう言われてきた。SANOに入社してからは尚更だ。兄貴の朗らかさや柔軟性と比べられては、「おまえじゃない」とため息まじりに首を振られた。
 兄貴に会社を継がせたかったはずの父さん。兄貴への慕情を失わない瑠璃。兄貴を尊敬していた社員たち。俺の周りは、みんな兄貴を求めている。それでも俺は、SANOを愛しているから、良くしていきたいから、己の精一杯を注ぎ込んできた。

「言うようになったな。奥さんの影響?」
 兄貴は怒るどころか吹き出すと、「だよなあ」と大きく頷いた。「婚約したのは、俺の狡さに他ならないな」──続いた言葉に耳を疑う。これではまるで、兄貴が瑠璃を想っているみたいではないか。
「実際のところ、兄貴は瑠璃を」
「好きだよ。じゃなきゃ、とっくに煙に巻いてる」
 心の声が自然と漏れ出たような口調に、返す言葉が見つからなかった。ただ、二十年近く振り回された挙句に捨てられたと泣き喚いていた、あの哀れな幼馴染をここに連れてきてやりたいと思った。

「おまえはさ、俺より、ずっとちゃんと生きてるよ。父さんは、今後を期待できない社員を人事部長のポストに置いたりはしない。あの人も瑠璃も、結局はおまえに頼って縋ってるんだろう。貴介の優しさは、確実に周りを救ってる」
「……どうして、急にいなくなった」
 ここ数日、部長が出勤していない。企画広報部の社員からそう報告を受けた朝をよく覚えている。次の季節を予感させる冷たい風と、爽やかな秋晴れが気持ちのいい朝だった。
「誰にも止められたくなかった。ずっとやりたかったことに挑戦するきっかけを貰えて、年齢的にも立場的にも、今しかないと思った」
 兄貴は農学部に通っていた。学部では食料と環境経済、院では農学全般を専攻していたはずだ。
 SANOはスーパーマーケットを展開する会社だ。お客さまの食の安全を守り、確保し、質を高め、手の届きやすい価格で提供する責任がある。日本の食料基地とも呼ばれる北海道を本拠地にしているのだから、食への拘りはかなり強いと自負している。
 だから、兄貴が入社したと聞いたとき、将来の事業拡大を見据えて進学先を選んだのかと腑に落ちたのだ。それなのに、まさか。

「それでも、父さんと瑠璃には説明するべきだった」
 俺には黙っていたとしても。その言葉を飲み込んで、気づく。俺はたぶん、寂しかったのだ。
 当時、人事課長として兄貴の当面の処遇について考えながら、心に空いた穴の埋め合わせをしようとしていた。疎遠になっていたことを後悔した。俺くらいには言ってくれても良かったんじゃないか、なんて都合良く考えた。泣きじゃくる瑠璃を横目に、もう二度と会えないかもしれない、と過ぎった日もあった。
「そのふたりが一番反対するだろ。時間がなかったんだ。せっかく副社長がきっかけを作ってくれたのに」
 突如登場したその固有名詞に驚き、声を失った。急激に酔いが醒め、余韻がどこかへ飛んでいく。

【次話】


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