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本を読むということ

私は本を多くは読みません。
いえ、こう言うと語弊があります。本には度々触れはします。
でも一冊まるまる読み切ることは多くありません。小説くらいかもしれない。専門書を読み切ることは稀です。
まず最初から読み始めるということ自体あまりありません。まず目次を開き(あるいは序文、あとがきを読んで)、気になる章の気になる箇所をあたります。それが当たりであればそのまま読み、はずれであれば別の章に飛ぶかその本を閉じます。
ある本にある目的を持って臨み、それが達成されたのであれば途中であろうと棚に戻すということが多いです。

そもそも何をもってその本を「読んだ」ことになるのでしょうか。
その本全体に目を通すだけならザッピングで短い時間で済ますこともできます。が、それで読んだことになるのでしょうか。
ある目的を持って本を読むのであれば、それが達成されれば?たとえそれがほんの数行だったとしても?
ではその本の内容を把握することではどうでしょうか。本はものによっては膨大なリファレンスが用いられ、様々な方向に矢印が飛び、あるいは飛んできます。それら全てを把握することはできるのでしょうか。そもそも難解で理解に及ばないことや、作者の意図ーーこういう言い方をすると「作者の死」まで考慮しなければならなくなりますがーーや社会的な認知、評価に沿う、あるいはそれを理解することまでしなければならないように思えます。

小説ならば最初から最後まで読み、物語を楽しんだのならばその本を読んだと言えそうですが、物語のない本はそれが難しい。
いえ、小説でも1回目は普通に読み、2回目は時系列バラバラに(さながらクリストファー・ノーランの「メメント」のように)読んでも、それは2回読んだと言えるのでしょうか。

ただのひねくれ小僧の戯言のように聞こえるかもしれないですが、実際本のやめ時がわからないのです。本を順々に読み進めていれば前に読んだ内容の一部は記憶から抜け落ちるし、そうすれば別の内容との紐付けも上手くいかなくなるかもしれない。内容を完全に自分のものにしたいのであれば、その本はいつまで経っても読み終えることはないでしょう。

千葉雅也がある飲み会でこう言っていたそうです。
本を読めるようになるには相当な年月がかかる、と。
なるほどと思いました。
その本の内容以前に、筆者がどんな問題意識を持ち、どんな文脈のなかで、どのような引用をもとに、どんなことを語り、その本が社会にどう受け止められ、どう解釈されているのか。
それが前提としてなければその本を理解することはできないでしょう。
本を読むには膨大な準備期間と知識の体系が必要になる。

とすれば、私が本を読めるようになるのはいつになるのでしょうね…。


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