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理解とは

こんばんは、


今日は、学校をさぼったのさ。

なぜって、布団のやつがなかなか離してくれなかったからだ。

あまりさぼったことはないのだけれど、




生きていれば、学校に行きたくないときだってあるでしょう?

たまにはいいもんさ、さぼるのも。


うん。たまにはね。



ということで、本題。

理解するとは、どういうことか。

または、理解なんてことを本当にすることができるのか?



結論からいえば、

理解するとは、誤解を積み重ねるということ。




何かを100%理解できるとすれば、それはどんなに素晴らしいことだろうか。



例えば、好きな人のこと。


今、何を考えているのか。

何を求めているのか。

なぜ怒っているのか。

その人にとっての幸せとはなんだろうか、等々。



どれも完璧に理解できているとすれば、

次に自分は必ず明確なベストアンサーが出せるはずである。

少なくとも、ケンカは起こらないのではないだろうか。

それはそれは素晴らしいことである。





ただし、実際には

ベストアンサーを出せるときの方がきっと少ないし、

ケンカは起こりえる。


それが現実ではなかろうか。


うん。そのはずである。




なぜなら、私たちはテレパシーを使えないし、

100%、徹頭徹尾、理解するということができないからである。



できるとすれば、ただ考動することだけである。

考動した結果、誤解をすることができる。

誤解を積み重ねることで、理解に近づいていく

(やはり理解することはできないが、、、)



例えば、人でいえば、

「あれ?そういう一面もあるんだ。」

「あ、そういうことを言えてしまうんだ。」

と思うことがあるのではないだろうか。


それが素敵な一面に気付けたということであれば、言うことはないのだが、

必ずしもそれだけではないはずである。


ショックを受けたり、

少し嫌いになりそうだったり、

もしくは、傷つくときもあるかもしれない。





ただ、知らなかっただけなのにね。

そして、知っただけなのに。



そう。

時に、誤解は傷を含むのである。


人間は、すばらしさだけじゃできてないからね。

だから、その人を理解しようとすれば、傷つくことは避けて通れない

それが多かれ少なかれ、ね。




この考えに至ったのは、

まぎれもなく村上春樹氏の影響であることは間違いない。

「理解は誤解の総和にすぎません。」― 村上春樹_スプートニクの恋人

そして、これは私のLINEの一言でもある。(どうでもいい)


私は、彼のファンである。

中学生のときからね。

今でも、彼の世界観に迷い込んでいる。

”海辺のカフカ”や処女作”風の歌を聴け”などは、まさにバイブルである。




おっと。

村上春樹氏のお話になってしまう。


ということで、今回は理解について書いた。

結論。

理解するとは、誤解を積み重ねるということ。(再掲)



今のところ、2日連続でさぼることはしない予定なのでそろそろ終わることにする。


それでは。

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