この世と彼の世を捨て去る 3:「ブッダのことば」スッタニパータ
朝からしとしとと雨降り、午後になって時折、厚い雲の合間から陽が覗いたりしていた。日曜日は、日曜哲学愛好家として、読んだ本の感想を軸に、なんらか note に投稿するようにしているのだが、今日は所有とか権利とか、考えているうちに意識はあっち行ったりこっち行ったり。
もともと、所有している、というのはどういうことなのか、ぼんやりと考えていた。今年に入ってから、いまさらながら Spotify で音楽を楽しむようになった。CDやLPといった物を所有することによって、物に紐づいた音楽のみにアクセスする権利を得るのではなく、契約を交わすことによって契約に紐づいた音楽にアクセスする権利を所有する時代になったのだな、と考えていた。
私は本はだいたい Amazon で購入していて、可能な限り Kindleで購入している。紙の本は、その形態でしか出版されていないものを仕方なく買うだけである。もちろん、電子書籍は、本という紙の実物を所有しているわけではなく、書籍にアクセスする権利を買っているわけだ。しかし、考えてみれば紙の本であっても同様である(*1)。
いやいや大違いだよ、本の装丁、たとえば、使っている紙の手触りやにおい、印刷された挿絵・イラスト、カバー、微妙な色調やフォントなど、実物にしかないものもあるんだよ、電子書籍にはそれがない、という人もいるかもしれない。
あるいは、お気に入りのボールペンで、重要な個所に線を引いたり書き込みをしたり、ドッグイヤーを折ったり、ワインのシミがついたり、読みこむほどに自分のものになっていく、それが楽しみなのだ、というのもあるだろう。
しかし、そうであっても所有する、というのは、それらの楽しみや感覚に自分が優先的にアクセスできる権利を所有していているだけと考えることができる。所有欲を満たした満足感を持つ権利を所有していると言ってもいいかもしれない。その物が自分の所有物であるのは、買う、もらう、拾う、いろいろあるかもしれないが、私が正当に入手し、その正当性を人も認めるからであり、人がその正当な権利を尊重するからだ。
「これは自分の物である」という自分と物との特別な関係は、自分の思いと快の感覚の中にある。記憶を喪失したり、ボケたり、単に時間が過ぎただけであっても、自分の物であったはずの物はそれまでと同じ自分の物ではなくなるだろう。一方で、手放して人の手に渡って行った物であっても、依然として自分の物だ、と思いたい物もあるだろう。
そして、周りの人が、あなたの言動から、あなたとあなたの物との間の特別な関係を認めることを通じて「それがあなたの物である」と認めるわけだ。
いやいや、サブスクの本や音楽は、真の意味で所有しているとはいえない、CDやDVDなどを買ったら自分が独占して自分の自由にでき、物を持っている限り勝手に取り上げられることはない。サブスクだと運営会社の都合で一部のコンテンツが楽しめなくなったり、場合によっては改変されたりするかもしれないではないか。つまり、サブスクや電子書籍では所有している権利は限られたものでしかないと思われるかもしれない。
しかし、物理的な物を買っても自分が全面的にその物を所有していると言えるか怪しい、そんな物が増えてきた。たとえば、iPhoneを買う。OSもアプリもAppleや作り手の都合で勝手にアップデートされる。せっかく、使い方に慣れてきたところなのに、知らないうちにUIが変更されて、また分からなくなった、なんてのはよくある。ソフトウエアだけではない。具合が悪くなったから分解して部品を入れ替えたら、純正部品と違うから起動できません、と立ち上がらなくなったりする。「自分で修理する権利」などということが声高に叫ばれる始末だ。
そんなこんな、つらつらと考えあぐねているうちに、所有するということは一般に権利の話であり、他人や社会との関係の中で生まれることであって、経済システムの一部であり社会の制度なのだと考えてみた。どんな物であれどんな情報であれ、どんな権利であれ、私が何かを所有するだけで何がしか対価が必要だし、所有しているということは社会や環境によって支えられている。
では、そういう自身をとりまく環境や、自身が獲得してきた経験とは独立して、私が私として生まれながらに所有しているものはあるのだろうか。生命、という人がいるかもしれない。しかし、生命があって私があるのであって、生命と独立した私があってそんな私が生命を所有しているわけではない。
もともと何も所有していないのだったら、どうでもよいことかもしれない。
あたりまえで役にも立たないことで、しかもすでにいろいろな人がさらに深く考察しているようなことで、今日は、ゴールにたどり着くこともなく、ブラブラと考えが彷徨っていた。
手元にいつもおいてある「ブッダのことば」スッタニパータ、中村元訳を開いてみた。
p.189から引用しておこう。
854 利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。(略)
855 (略) 世間において(他人を自分と)等しいとは思わない。また自分が勝れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。(略)
856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない。
858 かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。
私達はどこから来て、どこに行くのだろうか。
■注記
(*1) 電子書籍やサブスクの音楽など、遺産として相続できるのか、という点が少し話題になったことがあった。
少しネットで検索していみると次のようなサイトがひっかかった。
どれを読んでも、相続できるのかどうか、わかったようなわからないようなモヤモヤ感が残るが、アカウントの契約を正当な手続きで変更して引き継げばいいだけのように思える。ということは、紙の本でも電子書籍でも同じことではある。
806 人が「これはわがものである」と考える物、-それは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理を知って、わがものという観念に屈してはならない。
「ブッダのことば」スッタニパータ 中村元訳 p.181
まぁ、しかし、紙の本なら間違いなく相続できるといっても、大量の本を残されるほうも大変である。故人がよっぽど著名な人だったりして、その人が所有していた、というだけで資産価値があるなら別だが、多くの人はそんなことはないだろう。興味がまったく違う本ばかり残されたり、あるいは、残されたほうが本を読まない人であれば大変だ。保管するだけだってお金がかかる。本は重たい。保管場所もないよ、でも、捨てるのももったいないし故人の思いもあるしなぁ、と思って古本屋に持っていたら、書き込みだらけでカバーも帯もないような本は二束三文、こんな本、段ボール何箱積まれたって何の価値もないですよ、という不機嫌な店主の顔に腹を立てることになるし、場合によってはお金を出して処分してもらわないといけない。
人の持つ思い入れほどやっかいなものはない、ということになり勝ちだ。
もう15年も前になるだろうか、だいぶん昔に、本棚に飾っているだけになって抱きしめてもときめかなくなってしまった本の多くを思い切って古本屋に持っていたときに、思い知らされた。
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