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知らないものを知る力:小林秀雄・岡潔 "人間の建設"

この週末は、今年の初めに亡くなった義母の納骨があり、単身赴任先の新横浜から京都の自宅に帰り、ひさびさに娘夫婦と1歳8か月になる孫に会った。小さな子がいると大変だ。何かと、その子中心に物事が回ることになる。その他なんやかやと雑事に忙しく、なかなか読書も進まないし、note に何か気の利いたことも書くこともできない。

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今読んでいる日本語の本・カントの「判断力批判」も、英語の本 James Tiptree Jr. の短編集 "Her Smoke Rose Up Forever" も両方とも重く、こういうときにはなかなか開けない。Mattt Riley の "How Innovation Works" は比較的軽いが長すぎる。まだ前半の前半あたりにいるせいかあまり乗れない。

こんなときの隙間時間に読んでしまえるような、ちょっと軽い本でもないかな、と Amazon を繰ってみたら、小林秀雄と岡潔の対談が130ページくらいと手ごろでよさそうだったので、すぐに購入し、一気に読み終えた。

小林秀雄は博学で、文学だけでなく、美術・工芸・音楽、野球、酒、そして哲学や物理にも造詣が深い。だから、講演とか対談になると話がとても面白く、しかもはっとする内容も多い。そして読みやすい。

タイトルは「人間の建設」と大げさで、いったい誰がどんな料簡でこんなタイトルをつけたのか、お二人とも納得されているのだろうか、と訝しさ満点ではある。しかし、内容は教育論の部分もうっすらあるが、自由な放談と言ってよく、岡潔の特攻隊賛美のように読める部分は感覚的に馴染めないが、そこを除けば楽しく読むことができる。

岡潔の、「無明」という仏教用語(*1)を軸にした科学技術や芸術への批判は少し考えが浅くて頑固爺さんにような感じにも受け取れたが、私がこれまで岡潔の著作に馴染んでいないせいであろう。

アインシュタインの逸話や、時間、相対性理論や量子力学や熱力学についても話が及び、なかなか面白い。数学者・岡潔には物理学や哲学というのがこう見えるのか、とちょっと新鮮であった。無限の密度である ℵ0 アレフ・ヌルの話も少し出る。

無限の密度に関して、少し知識をひけらかしたときがある。


数学の世界は詩の世界と一緒で個性の発揮である、と言われると不思議に思う人がいるかもしれない。公理系から論理で組み立てる世界に個性があるというのはどういうことだろう。

問題の捉え方、そして問題へのアプローチ、考えの筋道、そういったことが各人各様の個性によっていて一人一人みな別だ、というのだ。

岡潔は、数学や詩の世界は、個性の発揮以外にないという。

各人1人1人、個性はみな違います。それでいて、いいものには普遍的に共感する。個性はみなちがっているが、他の個性に共感するという普遍的な働きをもっている。それが個人の本質だと思いますが、そういう不思議な事実は厳然としてある。それがほんとうの意味の個人の尊厳と思うのですけれども、個人のものを正しく出そうと思ったら、そっくりそのままでないと、出しようがないと思います。(中略)漱石は何を読んでも漱石の個になる。芥川の書く人間はやはり芥川の個をはなれていない。それがいわゆる個性というもので、全く似たところがない。そういういろいろな個性に共感がもてるというのは、不思議ですが、そうなっていると思います。個性的なものを出してくればくるほど、共感がもちやすいのです。(p.19 - 20)

これは、カントの言う「判断力」すなわち美しさを認識の力と共通する。数学や理論物理学で大事なのは美しいかどうかにある、ということを言う人がいるが、このような個性の発揮と共感という部分が共通だからであろう。極めて個人的な判断でありながら、同じ判断を他人に要請する。数学や物理学は人間の思考の最も純粋な形式で客観的な実在を表すものであると思われるが、実際に数学者や物理学者に聞けば往々にして、このような主観的な判断力が大事だと説明されるのは面白いことだ。

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「矛盾がない」ということは「感情の満足」である、というのは目新しいと思った。

数学のような知性の最も端的なものについてだっていえることで、矛盾がないというのは、矛盾がないと感ずることですね。感情なのです。そしてその感情に満足を与えるためには、知性がどんなにこの二つの仮定には矛盾がないのだと説いて聞かしたって無力なんです。(p.28)

ちょっと私にも腑に落ちない部分があった。論理による説明が、はっきりと語られたあるいは背後に隠れた多くの前提条件があるうえでのみ成り立つことを考えてみれば、同じ事象に対する何通りの矛盾のない説明があって、なお、その帰結が矛盾していることは十分にある。が、同一の論理関係で矛盾があることもあるというのだから。

この点は、上に書いた無限の密度の議論、ℵ0 と ℵ1 の間に中間の密度があるとも、中間の密度がないとも、両方とも無矛盾であることが証明された、ということに立脚して述べられている。あれ、そうだったっけ?というのはまた後日、調べてみようと思う。

私の知らないことである。知らないことを知るには時間と情熱が必要だ。

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感情の満足、不満足を直観という。その直観から情熱が生まれる。その直観は個人個人違うものであるから、そこに立脚して表現されるものが、芸術であり、数学をはじめとする学問であるのだろう。感情の流れが生きる時間の流れとなる。芸術を体得し学問を身につけるには時間がかかるものなのだ。

例えば、数学が正しい論理のみの閉じた系であるならば、なぜ、新しい問題が生まれ、新しい発見があり、新しい分野が生まれて、時代とともに発展するのだろうか。

新しい数学の分野が切り開き、新たな知の地平が開こうとしたときは、それまでの考え方の内側から外に出なければならない。つまり、前提の否定であったり、新しい前提の導入、あるいは、認識や概念の捉え直しといった飛躍が必要になるわけだ。そこに数学者の直観と情熱に根差した個性と時間が必要であることはよくわかる。カントは、それを「天才」と名づける。

天才とは、芸術に規則を与える才能(自然の賜物[天分])のことである。
イマニュエル・カント「判断力批判」(上) p.256

だから客観的であることを重視するあまり個性を排除するような学問の方向や、個性的であろうと新機軸に奇を衒うのに忙しい芸術の方向には、知の力の衰退を感じることとなる。

知の力とは、新たな知識を獲得する力、知らないものを知ることだからだ。

それにしても、自我が芽生えて間もない孫の成長の様子を見ていると、普段、私が考えていることなどまったく意味がないのではないか、と思わされる。遊ばせるためにクレヨンとお絵描き帳を買ってあったのだが、さっそく個性を発揮しはじめていた。

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知らないものを知る力は、もともと誰でも持っているように思える。それが大人になるにつれ物知り顔になって、個性の発揮による建設ではなく自己の主張による争いばかりになるのはどうしたことだろうか。


■注記

(*1) 岡潔は「無明」について、こう書いている。

人には無明という、醜悪にして恐るべき一面がある。(中略)
人は自己中心に知情意し、感覚し、行為する。その自己中心的な広い意味の行為をしようとする本能を無明という。(中略)その個性は自己中心的に考えられたものだと思っている。本当はもっと深いところから来るものであるということを知らない。つまり自己中心に考えた自己というもの、西洋ではそれを自我といっております。仏教では小我といいますが、小我からくるものは醜悪さだけなんです。(中略)人は無明を抑えさえすれば、やっていることが面白くなってくると言うことができるのです。(p.10 - p.11)

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