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二つの太陽のある世界:Liu Cixin "The Three Body Problem" 「三体」

2019年に日本語訳が出版されたSF小説「三体」、かなりの人気だったらしく、そこで、今年の洋書一冊目として、"Three Body Problem" を読んでいる。もともと、2006年に中国のSF雑誌に連載された長編SFだが、この Liu Ken による英語翻訳版で2015年のヒューゴー賞を受賞している。確かに面白い。いきなりぐいぐい引き込まれたが、2週間でようやく半分まで来た。

紙の本の長さで400ページの長編なので一日17ページ前後、通勤の途上の1日30分程度が読書時間、英語で、ページにぎっしりと文字が詰まっているので、まぁこんな感じか。

本来なら中国語の原書を読みたいところだが、中国語は難しい。数年前に簡単な会話くらいはできるようにと勉強したが、ギブアップした。文法がまったく違うし、簡体字は似ているようでやはり違う。そしてギブアップした大きな理由は発音であった。発音、構成する音がまったく異なる。四声と言われる調子、無気音と有気音、舌を持ち上げて発音する音。発音できないと文字は読めない。なまじ形も意味も似ているだけに、日本の漢字の読みに引っ張られる感じで、よけいに難しく思えた。

中国語は今後、ますます重要になると思うので、いずれ、再挑戦しようと思うが、その前に英語である。仕事で付き合う中国の人はみな、英語でコミュニケーションする。ヨーロッパやアメリカの関係者も交えて会議をする場で、英語でちゃんと話が通じなければ、中国語でカタコトの会話ができたって駄目である。語学の勉強に使える時間は有限であるから、とにかく英語に時間を割く必要があるのだ。

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さて、私は、日本の本であれ、外国の本であれ、原書・原典にあたることが大切だと思っている。話題の本なら、解説本や太鼓持ちの記事、貶める記事など、いろいろ読みやすいものがある。どちらであっても、自分に口当たりのよいものだけを選んで押さえておくことで、いっぱし分かったような気になっていないだろうか。

外国の本の翻訳の場合、たいていは、訳者か、訳者に近しい人の比較的詳しい解説が巻末についていることが多い。中身がよくわからなくも、あるいは中身を読まなくても、序文を読んで、目次を見、巻末の解説さえ読めば、それだけでいいような気もしてくるくらいだ。

解説を読むというのは他人の学びを学んでいるところがある。本に限った話ではないが、あなたにも「この人の解説はすごい、しっくりくる」と思える、そんな人が何人かいるのではないだろうか。本当にあなた自身の学びになったかどうかはよく考え直してみたほうがよい。

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解説と翻訳を一緒くたにしてはいけないが、両者に共通するところがある。それらは、料理のようなものなのだ。

料理というのは、そのままでは消化しにくいものを、切ったり削ったり叩いたり潰したり、茹でる炒める揚げる蒸す、混ぜる、包む、塩漬けや味噌漬けにする、発酵させる、乾燥させる、あるいは、合成する、などなど、そういった操作によって、人が消化しやすいように変化させるプロセスである。すなわち、食べ物を体内で消化して自分自身の栄養として取り込む、そういった内部の機能の一部を外部化し、その機能を対象として発展させることで、食べられるものの範囲を飛躍的に広げていく原動力となったのだ。これによって、食べられない4足のものは机と椅子だけ、食べられない2足のものは人間だけ、といったこととなり、すなわち、料理とは、いわば、外部にある消化機構だ。

理解できないものをかみ砕いて、理解できるようなものに変えるのが、翻訳であり、解説だ。近頃に流行りの「漫画版」もそういうものだ。料理人の思想によって調理されたものとなり、口当たりよく甘く味付けされるが、もとの素材の良さはいくぶんか、場合によってはまったく失われてしまうのだ。そういう意味では、素材の良さを引き出しつつ受けのよい独自の味付けをできる料理人と、良い翻訳家、良い漫画家はいい対照になっているかもしれない。

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翻訳は、拙い翻訳や誤訳は問題外として、翻案でもなければ、創作でもなく、解説や解釈が入るものではないが、しかし、翻訳者の視点や切り口、理解はどうしても反映されるものである。この人の翻訳は好きだけど、この人の翻訳は肌に合わない、というのはあるものだ。私は是非を問うているのではない、本とはそういうものだ。

だから、私は著者と間に他人を交えずに、著作物を仲立ちにして著者の声を聴こうと努めると、やはり、原典にあたるのがよいと思うのだ。

ところで、日本の本はさておいて、英語ができれば原書にあたれるかというとなかなかそうは問屋が卸さない。最近のビジネス書やハウツー本、科学技術の専門書を読むには、英語が読めれば事足りるが、哲学や思想、文学の古典、あるいは近代のものでも、フランス語やドイツ語に堪能でないと、ほとんど原書にあたることができない。あるいはラテン語やギリシャ語、サンスクリット語、アラビア語、....だ。どうせ、英語に翻訳されたものを読むなら日本語訳を読めばいいじゃない、と思うのが普通だろう。だから、デカルトやカント、マッハ、ウィトゲンシュタイン、フーコー、ドゥルーズ、など、無理せずに日本語訳を読んでいる。

では、中国のSF「三体」は、なぜ評判になった日本語訳を読まないのか、というとあまり理由はない。翻訳は素晴らしいということだ。

単に、私がちょっとへそ曲がりだからかもしれない。

もう、十年以上になるだろうか、1年に12冊は英語の勉強を兼ねて洋書を読むようにしている。通常、軽いビジネス書やはやりのハウツー本、哲学や人文系で300ページから700ページあって、しかも文字がぎっしりと詰まった読み応えのある本、そして、好きな探偵小説やSF小説、5:4:3くらいだろうか。あと、ほかに、仕事で必要な分厚い専門書を1-2冊。本当はもっと読みたいが、時間の確保が難しいし、スピードは少しずつ上がってきてるとはいえ、なかなか思うようにいかないものだ。

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英語の勉強には、ビジネス書が一番だと思う。成功している企業の秘密、金持ちの習慣、行動を変えて生まれ変わろう、人生が変わる!ということで勢いがあって読みやすい。行きの電車の中で読めば、シャキッと元気になって仕事をはじめ、返りの電車の中で読めば、エネルギーをもらって家庭のあれこれにも取り組める。しかも、ベストセラーを狙って万人にわかりやすく書かれていて、使われている単語にしろ、文章にしろ、平易で分かりやすい。事例が豊富で各章ごとに、まとめとして、ポイントが箇条書きにされている。職場の同僚との共通の話題にもなりえる。

人間の愚かさを格調高く表現している文学は、ときに気分が陰鬱になる。構文や単語が難しすぎて、なかなか読み進むことができない。冬の電車のヒーターの効いた座席だとすぐに寝落ちして何度も同じところを読むはめになる。

探偵小説や冒険小説は、ストーリーがおもしろすぎると、細かいところをどんどんすっ飛ばして、少々意味がわからなくても、どんどん先へ先へ、と読んでしまうので、あまり英語の勉強にならない。漫画を読んでいるのとさほど変わらない。

そういうと、ドラッカーの著作などはおすすめだ。内容は歯ごたえがあって読み応えあり、フォーマルな構文の文章もかっちりとしていて英語の勉強にもなる。しかも予備知識もあれば読みやすく、途中で投げ出す心配も少ない。そして話題作りにもよい。ちょっと偉くなったような気分にもなれる。

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SF好きにはSFを。"The Three Body Problem" は、英語としては平易なほうで読みやすい。描かれているイメージとストーリーは斬新だ。上にリンクしたAmazonの内容紹介からコメントを引用して、オバマ前米国大統領の権威を借りておく。

'Wildly imaginative, really interesting ... The scope of it was immense'

中国、特に北京に行ったことがある人は、場面場面が想像しやすく親近感を持って読めることだろう。中国人の名前になじみがないと、なかなか登場人物を覚えにくいかもれない。また、人に勧めるには大きな懸念も感じる。ひょっとしたら物理学や技術の知識がないと、何がおもしろいのか、さっぱりわからず退屈してついてこれないかもしれない。

面白いところと、少しどうかな、と思うところもある。うまくまとまるか自信がないが、後日に譲ることとする。

何か不可解なこと、つじつまの合わないこと、超常現象としか言えないようなことがあったとしたら、その背後には必ず、何かをたくらんでいる人間がいる。

今月中には予定どおり読み終えることができるだろう。

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