火曜日しばらく雑記帳・番外編 #4:2023 Wrap Up / Ballet 美しいと認識する力
今月は振り返り月間として、火曜日の雑記帳の番外編を書いていて、本編と合わせて週に2回の火曜日の雑記帳を書いている。今年も早いもので、今週がもう最後の一週間となり、番外編も 4回目となりこれが最後だ。
さて、雑記帳 CW49の冒頭で 番外編 #4 は SNS, note について振り返ると予告した。
しかし、どうにも書いてみて、SNSネタではイマイチ筆が進まないので、予定を変更して、バレエについて振り返りをしておこうと思う。
■5月にロックバレエと銘打ったQueenのヒット曲の数々をバックにダンサーが踊る現代的なバレエを見に行ってきた。
コンテンポラリーなダンスを見るのは初めてだったが、素人目にはやはりクラシックバレエのほうが見ごたえがあると思ってしまった。Queenだって好きではあるし、悪くはないけれども、それこそ、もっとコンテンポラリーな音楽を題材にしたほうがいいのでは?と思った。
が、バレエに無関心な幅広い層にアピールしようと思えば Queen という題材は悪くない。ロックのいかがわしい猥雑さはなく、ソフィスティケイトされた音と楽曲、どこかで聴いたことのある印象に残るメロディ、フレディ・マーキュリーのカリスマ、力あるボーカルに綺麗なコーラス、適度な怪しさもあり、親しみやすい。
企画としては非常にいいと思った。
二山治雄を見に行こう、というのが目的だった。二山治雄は「孤高の天才」とか「リアル妖精」などと呼ばれる 1997年生まれ、若干26歳の若手のバレエダンサーだ。この目で見る二山治雄のダンスはやはりひときわ美しかったし、ヒロインを踊る米沢唯にも惚れた。
Queenの楽曲をうまく使って全体のストーリーを構成して、その上で、各楽曲(しかも3拍子ではなく4拍子)に合わせて魅せる踊りを構成するのは傍目で想像するよりも相当に大変なことだろうな、と思った。
バレエのために作曲された音楽でもなく、ヒップ・ホップでもなく、当然ロック・スターのバックダンスでもない。
振付師がいかに大事か、というのもなんとなく得心がいったように思う。
■本格的なバレエの観劇といえば、今年は11月に「眠り」を見に行ってきた。
感想などは繰り返しになってしまうので、記事を読んでほしい。わかりやすいストーリー、道具立ても素晴らしく、煌びやか、しなやかに躍動するダンサーたち、なかなか感動だった。
■毎年見に行っているのだが、友人が通うバレエ教室の発表会もすばらしくよかった。演目はコッペリア。
たかがアマチュアの教室の発表会だとあなどるなかれ、実はこういうところにもバレエの楽しさ美しさが宿っていると思っていい。バレエは体操競技ではないし、トップスターの超絶演技を楽しむだけではない。老若男女問わず思い思いに参加することができ、そしてそれぞれなりに美しいものなのである。
この記事に書いたとおり、コッペリアは、英国のロイヤルバレエのDVDで予習したのだが、マリアネラ・ヌニェス、ヴァディム・ムンタギロフの二人が主役で、Instagramでフォローし始めた。ヌニェスは発信数が毎日毎日とても多く、すっかりファンになった。やはり発信数は大事だなと思いつつ、見るほうは見るほうで大変だ。Instagramのユーザは、みなどうしているのだろう。
マリアネラ・ヌニェスは度々来日して公演しているようだ。今年も知っている限り8月と年末に来ている。他にも私のいちおしのナターリャ・オシポワも今年来日していたらしいし、これから先、いつか見る機会があるかもしれない。
■ いまさら誤解する人はいないと思うが、私がバレエを習っているわけでもないしダンスを踊れるわけでもない。生まれてからずっと身体が固く頭でっかちで変に器用なわりには要領が悪い、背が低くてスタイルは悪く、いつも怪しく笑っている、そんな私がバレエに入れ込んでいるなんて、あまりにおかしいのだが、まぁ、何度も同じことを言うようだが、世の中もっともっとヘンなことが多いのだから、これも許してもらおう。
この、「美しいと認識する力」と題するシリーズはもともと、カントの三批判書の最後の一冊「判断力批判」を読んでその感想からスタートしている。
去年に書いた記事を貼って引用しておこう。
来年も、クラシックバレエの定番を少なくとも1つは見るつもりでいる。
「白鳥の湖」と「ジゼル」あたりを見たいところだ。他にストラヴィンスキーの「春の祭典」「シェエラザード」「火の鳥」など、ジャズ・ファンにしてみたら、とても興味があるのだが、公演があまりなさそうなのと、まだビギナーには難しいかな、という印象を持っている。
審美眼、換言すれば「美しいと認識する力」を何で養うか、というのは大事なところではある。そして「美しいと認識する力」を醸成するのは時間がかかるものだと思っている。来年にはまた見えるものが違ってくるに違いない。まだまだこれからだ。
いつにも増して書きっぱなし感の強い、とりとめのない話になった。
私たちはどこから来てどこへ行くのだろうか。
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