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A.I. は鏡像の A.I. を見るか:下條信輔「<意識>とは何だろうか」

もちろん、鏡の中の空間は現実の空間ではない。鏡に手を伸ばしても鏡の面より向こう側には到達できない。また、鏡の裏側に回ってみても鏡の中の世界はない。

前に投稿した「鏡像の敵」では、鏡が左右を転換するが上下を転換しないのはなぜか、という一見当たり前の問いかけについて書いた。そこでは、鏡は「左右を入れ替え上下を入れ替えない」というのと同等に、「上下を入れ替えるが左右を入れ替えない」とも言える、と指摘した。そのときに前提としたのは、次の2点である。

1.  鏡像の私は、私ではない。なぜなら、この3次元空間の中で回転操作と並進操作を組み合わせても重ね合わせることができないからである。
2. 鏡像を、もう一枚の鏡に写した像は私である。なぜなら、この3次元空間の中で回転操作と並進操作を組み合わせて重ね合わせることができるからである。

さて、数学を専門にしている人なら当たり前のことかもしれないが、次元を一つ上げると、回転と並進によって、元の図形を鏡像に重ね合わせることができる。簡単に説明しよう。

Microsoft PowerPoint などで、図形の鏡像反転の操作がある。そのアイコンを思い出してほしい。

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まず、この絵のような、1つの三角形と、それを鏡像反転したもう1つの三角形、紙面に描いた2つの2次元の三角形を考える。この2つの三角形は、紙面内の回転と並進で重ね合わせることはできない。

「裏返せばいいじゃない」

その通り。紙面と垂直な軸を加え、3次元内で、回転させると、見事に重なる。

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ということは、鏡の中の私も、時間軸を含んだ4次元の時空間内で回転操作を加えれば私に重ね合わせることができるというわけである。ということは、回転と並進によって重ね合わせることができることが、自己との同一性の判断基準だとするならば、鏡像の私も私と同一であると考えることもできるのではないだろうか。もっとも、私たちはそのような操作の術を持ち合わせていないわけであるが。

アインシュタインの相対性理論は、それまではまったく別の独立な軸と考えられていた時間と3次元空間を、4次元の時空間としてとらえ、それによって、どの観測者にとっても物理法則が同一になるように物理法則を表すことができることを示した。それ以前は、絶対時間、絶対空間があり、その中で運動している物や私たちがいると考えられていたが、むしろ、私たちが物を現象を通じて客観的に認識する形式として時空間があるのだ、と考えることができるようになった。

時間は永遠に同じ時を刻み、空間は無限に広がり等質であって、宇宙はその中にある、というわけではなく、有限な宇宙があり、それを時空間として認識するのだ。その宇宙のとらえかたによって、わずかな惑星の運動のずれであったり、重力波であったり、ブラックホールが観測されるはずだ、などと予言され、それぞれが実証されているわけだ。

かくして、鏡像の私も私自身であるのかもしれないのだ。

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さて、鏡に映った自分を自分自身だと、通常は認識して、髭をそったり、化粧したり、髪を整えたりする。このように、鏡に映った自分を自分自身だと認識できることが、自意識を持っていること、意識があることの指標である、と考えることができる、という。

チャールズ・ダーウィンが同様の問題に着目していたことが知られています。ダーウィンがオランウータンに行ったミラーテストでは、オランウータンに鏡の概念を理解させることができなかったとのこと。また、ダーウィンは自分の子どもたちが生まれて数年間は、鏡を理解できなかったことにも触れています。
1889年には、ドイツの研究者であるヴィルヘルム・プレイヤーが、鏡の自己認識と意識(心)との関係を初めて確立しています。1960年代の研究では、フランスの精神分析医であるジャック・ラカンが、人間の幼少期の自己の形成に鏡が寄与するという「ミラーステージ」という概念を考え出しました。1972年には発達心理学者らがギャラップ教授のミラーテストに似た手法で、人間は生後18~24カ月の段階で鏡の中の自分を認識するということを証明しました。

「サルや犬など動物が自意識を持っているのか」という問い、そして上に引用した実験の議論を考えると、次のことにはたと気付くことになるだろう。すなわち、「人が自分と同じように自意識を持っているのか」という問いに対しても、実は、同様に、ある人の行動を観察し、その人と関わり合いを通じて認識するしかないということである。

ここまで書いて、下條信輔の「<意識>とは何だろうか」を読み返してみた。ここに、一節を引用しておく。

皮肉なことに、感覚や感情の主観的体験という、もっともプライベートにみえることが、実は他人が自分を他人としてみるときの記述を倣い、自己を他人としてみるということによってはじめて成り立つのです。p.166
心はどの場所に存在するのでしょうか。脳の中に、という答えが、現代人なら一般的でしょう。けれども、意外に聞こえるかもしれませんが、他人に、という答えもじゅうぶん可能だと思うのです。
(略)
自分と他人の間でお互いに他人を認知し合うところから、意識は発生するのであって、脳内にいきなり他から孤立した「意識の中枢」が出現するわけではないのです。 p.168-169

この本はとても面白いので、A.I.とりわけシンギュラリティに興味ある方には、是非読んでほしい一冊である。

鏡像の私を私と思う働きも同じ働きによるイリュージョンであると思える。では、もし、A.I,が、私たちにとっての他人と同等の受け答えや動作ができるになったとすると、私たちはA.I. の中に「心の理論 (wikipedia)」を見出すことができるのだろうか。そのときに、A.I. は、鏡像の自分を自分と見なすことができるようになるのだろうか。その場合、A.I.にとっての鏡というのは、どういうものなのだろうか。かならずしも、私たちに認識できる3次元空間内の姿形である必要はない。すなわち、A.I. は私たちのような身体を持たなくてもよい。

私たちには認識できない別の次元を含んだ空間の中にある鏡なのかもしれない。



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