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"愛するということ"の読書感想文

"愛するということ"を読み返した。科学的な裏付けはないが、圧倒的な説得力があり、何よりこの考え方を信じて自分の中心に置きたいと強く思える名著。読み返した数ナンバー1の本。

1.みんな3つの理由で愛を学ばないが、実際は学べるもの

著者は冒頭に愛について人々が学ばない理由が3つあるという。

1.愛する能力の問題でなく、愛されるという問題として捉えている

今のご時世に適切な書き振りかという疑問はあるが、男性は社会的に成功し、自分の地位で許される限りの富と権力を手中に収めること、女性は外見を磨いて自分魅力的にすることを求めがちで、"愛されること"のみにフォーカスしていることがまず一つだと。

2.愛の問題は対象の問題であり、能力の問題ではないと思い込んでいる

愛することは簡単だが、愛するにふさわしい相手、あるいは愛されるにふさわしい相手を見つけることは難しいと思っていることが二つ目。

3.恋に「落ちる」という体験と愛の中に「とどまっている」状態の混同

互いに夢中になった状態を、愛の強さの証拠だと思い込んでいることが3つ目。このような3つの理由が愛を学ばないものに仕立ててしまっているが、

生きることが技術であるのと同じく、愛は技術であることを知ること。

この本の主題はこれ。技術と書くと無機質で曲解されそうだけど、「愛するということ」は学ぶことができるものだというのが、本当に言いたいことだと思っている。

2.人は孤独を逃れるの3つの方法がある

人間の最も強い欲求とは、孤独を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。

人間はどの時代も、孤立を克服するかに迫られているという。そこから逃れるためにも人は三つの方法をとる。

1.祝祭的興奮状態

これは、お祭り騒ぎのようなものだ。これは自己催眠的な恍惚状態という形をとることもあるし、麻薬の助けを借りることもあるという。束の間の高揚状態で外界を消して、孤立を紛らわす。ただこれは、一時的なものだ。

2.集団への同調

現代の西洋社会でも、孤立感を克服する最も一般的な方法は、集団に同調することである。集団に同調することによって個人の自我はほとんど消え、集団の一員になり切ることが目的となる。同調は孤独を消す。ただ、これも恐怖からつい動かされる偽りの一体感だ。

3.創造的活動

芸術的なものもあれば、職人的なものもある。どんな種類の創造的活動の場合も、想像する人間は素材と一体化するという。ただし、これは自分で計画し、自分の眼で成果を見るような仕事でのみなしえると。個人的にこれは逃げ場所としては悪いものではない気がした。

3.愛とは自由である上での能動的な行動

愛は、人間の中にある能動的な力である。人を他の人々から隔てている壁をぶち破る力であり、人と人とを結びつける力である。愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。

愛においては、2人が1人になり、しかも2人であり続けるというパラドクスが起きている。この繋がるが、染まってしまうのではなく、個性を保てるかが成熟している愛かどうかの分かれ目。これが解釈難しいところであり面白いところだ。

(スピノザは)感情を、能動的な感情と受動的な感情。「行動」と「情熱」とに分ける。能動的感情を行使するとき、人は自由であり、自分の感情の主人であるが、受動的な感情を行使するときは、人は駆り立てられ、自分では気付いていない動機の僕である。羨望、嫉妬、野心、貪欲などは情熱である。それに対して愛は行動であり、人間的な力の実践であって、自由でなければ実践できず、強制の結果としては決して実践され得ない。

羨望や嫉妬が受動的なのはわかるが、野心や貪欲もそうなのかというところはひっかがるものの、能動的感情の行使時は自由であることは理解できる。

愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。その中に「落ちる」ものではなく、「自ら踏み込む」ものである。

能動的に自由に動く時に愛は発動すると。だからこそ、愛はもらうものではなく、与えるものであると言いたいのだろう。

生産的な性格の人にとっては、与えることは全く違った意味を持つ。与えることは、自分の持てる力の最も高度な表現なのである。与えるというまさにその行為を通じて、私は自分の力、富、権力を実感する。この生命力と権力の高まりに私は喜びを覚える。

これは自分のBossを見ていても思うことだ。

与えるという行為の最も重要な部分は、物質の世界ではなく、ひときわ人間的な領域にある。自分の中に息づいているものを与えるということである。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分の中に息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ。

自分の生命を与えることによって、人は他人を豊かにし、自分自身の生命感を高めることによって他人の生命感を高めるというような良いスパイラルに入っていく。

人に影響を与えたいなら、その際に他の人々を本当に刺激し影響を与えられるような人物でなければならない。

これが大事なことなのだ。

4.愛は、弱さから生まれる欲求の克服の先にある

与えるという意味で人を愛することができるかどうかは、その人の性格がどの程度発達しているかということによる。

与えられることができるようになるには、性格の発達が必要と。

依存心、ナルシシズム的な全能感、他人を利用しようとか何でも貯め込もうという欲求をすでに克服し、自分の中にある人間的な力を信じ、目標達成のためには自分の力に頼ろうという勇気を獲得している。

自分の弱さの反動で動いているようでは、愛する勇気を持てない。

利己主義と自己愛とは、同じどころか、全く正反対である。利己的な人は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。
愛とは、愛するものの生命と成長を積極的に気にかけること。

これが、愛されようと動いている人と、愛するということを理解している人の違いなのだ。

5.愛は「対象」ではなく「態度」

人を尊重するには、その人のことを知らなければならない。その人に関する知によって導かれなければ、配慮も責任も当てずっぽうに終わってしまう。
自分自身に対する関心を超越して、相手の立場になってその人を見ることができたときにはじめて、その人を知ることができる。

愛するためには当然だが、人を尊重しなければならない。

例えば、相手が怒りを外に表していなくとも、その人が怒っているのがわかる。だが、もっと深く、その人を知れば、その人が不安に駆られているとか、心配しているとか、孤独だとか、罪悪感に苛まれているということがわかる。そうすれば、彼の怒りがもっと深いところにある何かの表れだということがわかり、彼のことを、怒っている人としてではなく、不安に駆られ、狼狽している人、つまり苦しんでいる人と見ることができる。

相手のことを理解すれば、この例のように怒りという表層情報から、その人が持つ恐れを理解できる。

配慮、責任、尊重、知は互いに依存し合っている。この一連の態度は成熟した人間に見られるものである。成熟した人間とは、自分の力を生産的に発達させる人、自分でそのために働いたもの以外は欲しがらない人、ナルシシズム的な夢を捨てた人、純粋に生産的な活動からのみ得られる内的な力に裏打ちされ、謙虚さを身につけた人のことである。

こういった成熟した人間になるべきと。そうすると、愛は「対象」ではなく「態度」に変わる。

愛とは、特定の人間に対する関係ではない。愛の一つの「対象」に対してではなく、世界全体に対して人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである。もし一人の他人だけしか愛さず、他の同胞には無関心だとしたら、それは愛ではなく、共生的愛着、あるいは自己中心主義が拡大されたものに過ぎない。

ここがかなり最も理解の難易度が高いところではないか。

6.愛するということ

自分自身を「信じている」者だけが、他人に対して誠実になれる。なぜなら、自分に信念を持っている者だけが、「自分は将来も現在と同じだろう、したがって自分が予想している通りに感じ、行動するだろう」という確信を持てるからだ。

これはそうだと思う。自分を信じれていないと、その不安を相手に投影してしまうものだから、まずは自分を信じることが大事というのは納得だ。

愛に関して言えば、重要なのは自分自身の愛に対する信念である。つまり、自分の愛は信頼に値するものであり、他人の中に愛を生むことができると「信じる」ことである。

愛も全くそれと同じなのだ。

他人を「信じる」ことのもう一つの意味は、他人の可能性を「信じる」ことである。この信念の最も初歩的な形は生まれたばかりの赤ん坊に対して母親が抱く信念である。つまり、この子は生き、成長し、歩き、話すようになるだろうという信念。

自分が信じられれば、人間の可能性をも信じることができるようになる。

愛するということは、何の保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分を委ねること。

これが愛するということなのだ。

現代社会は企業の経営陣と職業的政治家によって運営されており、人々は大衆操作によって操られている。人々の目的は、もっと多く生産し、もっと多く消費することだ。それが生きる目的になってしまっている。すべての活動は経済上の目標に奉仕し、手段が目的となってしまっている。今や人間はロボットである。

現代の人は大勢がロボットになってしまっている。今こそ愛を取り戻す時なのだ。


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