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短編小説『黒猫日記』

○月△日。月曜日。
晴れ、ときどき、黒猫。

 マフラーは、していない。
 ここ最近の急な冷え込みに、そろそろ持っていかなきゃなとは思っていたのだが、今日も忘れてきてしまった。吹き付けてくる冷気に、私は思わず首を縮める。
 やっぱり少し、肌寒い。後悔を引きずりながら、まだかなり遠くにある学校へと向かう歩調を、少しだけ早めた。入学したばかりの頃は大変だったこの長い道のりも、今ではもう慣れたものだ。でも、今日はその長さが少しうらめしかった。
 眉をぎゅっと寄せて鼻をすする。すると、冷え込んだ空気の中に、ほんのり甘い香りがすることに気がついた。少し甘くて、すっきりとした爽やかな香り。多分、何かの花のものだろう。もう一度ゆっくりと吸い込むと、かすかな香りは冷たく澄んだ空気と混じって、溶けていく。
 しばらくその余韻に浸っていると、突然、何かが足元を横切った。思わず足を止めた私は、行く手を遮った黒い物体に目を凝らす。道路の向こう側で立ち止まってこっちを見ている、黄色い2つの瞳。黒猫だ。
 ──黒猫が前を横切ると、不吉。
 そんな迷信が私の頭をよぎる。たった今、ものの見事に横切られてしまった私には、これから何かとてつもなく不幸なことが起こるのだろうか。そう考えると、何だか黒猫がすごい存在に思えてきた。前を横切る、たったそれだけの行動で、人の運命を変えてしまうんだから、なんて。
 そんな下らないことを考えているうちに、黒猫は姿を消してしまっていた。漂う花の香りをもう一度吸い込んで、緩んでいた歩調を再び速める。
 でも、あんな風に突然道路に飛び出していたら、むしろ黒猫の方が先に不幸になってしまいそうな気がする。
 まぁ、轢いたほうもある意味、不幸なんだろうけど。


 教室の扉を開けると、ひどく甘い匂いが鼻をついた。
 息を吐き、まっすぐ自分の席につく。窓側の、後ろから2番目。柔らかい日差しがほどよく当たり、この季節にはなかなか良い席だ。
 心地よい日溜まりの中で、開いた本の活字をぼんやりと眺めていると、ふわ、と欠伸が出てくる。欠伸を噛み殺し、じんわりと涙の滲んだ片目をこすっていると、前からコツン、という音がした。気づいて顔を上げると、続けて「わ、ごめんね」という声。
 どうやら、立ち上がった拍子に、前の席の椅子が私の机に当たってしまったようだった。
 別に、たいしたことじゃない。謝るまでもないような、些細なこと。
 顔を上げたままじっとしているだけの私と目が合って、戸惑っている様子の彼女。少しだけ、しまった、みたいな顔をしている。
 少しの間の後、「…ん、ごめんね」と私が返すと、その子はほっとしたように席から離れていった。
 中身のない、空っぽの言葉。そんなもの、いちいち口にする意味があるんだろうか。口にしたところで、どうせ空っぽなのに。
 再び手元の本の活字に、視線を落とす。
 『季節はゆっくりと移り変わる。もしも一日で季節が変わってしまったら、動物も、植物も、きっと驚いてしまうだろう。』
 目に留まったのは、そんな文章。
 そんなものかな、とぼんやり思う。昨日と同じように見える今日も、少しずつ、何かが変化しているのだろうか。だとしたら、今日私がマフラーを忘れたことも、黒猫に横切られたことも、そんな小さな季節の変化の一つ、だったりするのかもしれない。
 授業の始まりを告げるチャイムが鳴り、本を閉じる。チャイムと同時にやってきた背広姿の担任は、教室に充満した匂いに顔をしかめていた。
 甘く濃厚で、どこか誇らしげな匂い。最近このクラスで流行っている、ユリの香水だ。学校側としては、校則違反である香水の使用をなんとかしたいと思っているらしい。
 起立、と号令がかかり立ち上がる。先生は、しかめ面のまま。きっとホームルームでこの匂いについて苦言を呈するつもりなのだろうが、あまり意味はないだろう。これまで何度となく交わされてきた不毛なやり取り。それを繰り返したところで、今更何かが劇的に変わる、なんてことはきっとない。
 礼をして、着席。そうしていつも通りの授業が始まる。
 立った時に、前の席の椅子がコツン、と私の机に当たっていた。


 足を止めたのは、朝と同じ場所。風に運ばれてきた、花の香り。
 昼間に太陽の光をたっぷりと浴びて、緩く暖かくなった空気と一緒に吸い込むと、朝よりも少しだけ甘く感じられる気がした。
 ほんのり甘いけど、どこか上品で。ちょっとキンモクセイに似ているけど、そんなに目立つ香りじゃない。
 辺りを見回してみると、道から少し外れた目立たないところに、小さな白い花が咲いているのを見つけた。

 ──そう、なんというか、ひそやかだ。

 帰り道を少し逸れて、白い花を咲かせている木々に近づいてみる。見上げると、その枝に茂る葉っぱの形は、どこか見覚えがある気がした。
 思い出せそうで思い出せず、あれこれ考えながらトゲトゲとした葉っぱを眺めていると、その視界の端を何かが横切る。横切った物体は、こちらもなにやら見覚えのある黒色をしていた。
 どうやら、今日の私は相当に不幸らしい。
 しゃがみこんで、こちらをじっと見つめている黄色い瞳と、目線を合わせてみる。多分、朝と同じ子だ。
 小柄だがすらっとした手足の黒猫。よく見てみると、尻尾の先だけやや白っぽい色をしているようだった。首輪がないのを見る限り、野良猫だろう。この辺りに住んでいるのだろうか。
 自分から出てきた癖に、目の前に立つ私のことを警戒している様子の黒猫。私はその瞳を見つめ返し、しばしの間じっ…とお互いにらめっこをする。
 しばらくそうしていると、その黄色の瞳の中にはかすかに期待の色が見え隠れしているような気がしてきた。
 「…ごはん、ほしいの?」
 思いついたことを、そのまま言ってみる。すると「ごはん」という単語に反応したのか、黒い耳がぴくりと動いた。どうやら当たりらしい。
 何か持っていたかな、と思いながら鞄のポケットを漁ってみると、出てきたのは四角い黄色の箱だった。私の常備食、カロリーメイトのチョコレート味。

 ──猫って、カロリーメイト食べるのかな。

 ひどく疑わしかったけれど、とりあえず試してみることにした。一口大の大きさに割った茶色い塊を、掌に置く。そのまま左手を、そっと黒猫に差し出した。
 すると。
 私が手を近づけた途端、掌の上の食べ物には目もくれず、私の左手を思い切り引っ掻いてきた。

 ──痛い。

 引っ掻かれた左手を見ると、傷口から赤い珠がぷっくりと膨らんでいた。これが、今日の私が見舞われる不幸とやらなんだろうか。黒猫が直々に運んできたけど。
 ズキズキと痛む傷口をじっと眺める。傷は思ったより深いようで、傷口から溢れ出る血に押し出され、綺麗な赤い珠の形はすぐに崩れた。
 つん、と鼻をつく、鉄の匂い。
 立ち上がりながら汚れたスカートの裾を払うと、左手を流れる血がついて、余計汚れてしまった。それに気づいて、真っ赤になった左手を、ゆっくりとスカートから離す。
 黒猫は、もういなくなってしまっていた。


○月×日。火曜日。
晴れ、のち、マフラー。

 いつも通り、気だるい雰囲気の授業。
 寝ている人がいたり、宿題をやっている人がいたり。中には、こっそり携帯をいじっている人もいる。
 私は頬杖をついて、昨日の黒猫のことを思い出していた。左手の瘡蓋を眺めながら、指で少し触ってみる。まだ少し、ぴりっと痛んだ。
 授業に意識を戻そうと顔を上げると、生徒の何人かが顔を見合わせてくすくすと笑っているのに気がついた。ちらちらと、視線は黒板に向けられている。
 どうやら、先生が板書の漢字を間違えているらしい。さっきまで寝ていた子たちもいつの間にか目を覚ましていて、楽しそうに忍び笑いをしていた。
 次第に大きくなる、笑い声。それに気づいた先生の、訝しげな顔。間違いを指摘する、誰かの声。言い訳をしながら、慌てて書き直す先生。それを待っていたかのように、どっと沸く教室。
 途端に賑やかになった教室から視線を逸らすと、頬杖をつく私の姿が窓に映っていた。いつもと変わらない、つまらなさそうな無表情。その後ろには、うっすらと白みがかり、澄みきった秋晴れの空が広がっている。
 しばらくして視線を教室に戻すと、いつのまにか授業が再開していた。さっきまであんなに楽しそうに笑っていた子たちは、また睡魔に負けてしまっている。
 「エタノールを約170℃で加勢」。気づかずノートに写していたその文字を、私はなんとなくそのままにしておいた。



 帰り道。
 昨日よりぐっと気温が下がったので、今日は迷わずマフラーをしてきた。でも手袋はまだしていなくて、指先が冷たい。
 剥き出しの手をすり合わせて、はぁっ、と息を吹きかける。吐き出した息は、ほんのりと白くなった。
 昨日と同じ場所に行ってみると、そこには寝転がっている黒猫の姿。どうやら日向ぼっこをしているらしい。これだけ空気が冷たいと、太陽の光を浴びた地面にくっついている方が、きっと暖かいんだろう。
 そんな無防備な体勢でも、私が少し近づこうとすると、さっと起き上がって警戒の体勢をとった。ほう、さすが野生動物。

 ──でも、これならどうかな。

 鞄のポケットに手を伸ばし、一言呟く。
 「…ごはん」
 ぴくり、と動く黒い耳。分かりやすい。
 ポケットから出した私の手に握られているのは、煮干の袋だった。昨日あの後に寄ったスーパーで売っていた、個包装のお徳用。袋を破いて、今度は掌の上ではなく私の足元に蒔く。
 猫といえばにぼし、という私の単純な発想。でも、件の猫も同じくらい単純だったようだ。あっという間に足元に近づいてきて、私の蒔いた煮干に食いついている。食べ物を目にした途端、今までの警戒はどこへやら。それでいいのか、野生動物。
 煮干しに夢中になっている黒猫に恐る恐る手を伸ばしてみると、今度は引っ掻かれることなく触らせてくれた。これが煮干しの対価、ということなのだろうか。どうやら昨日のカロリーメイトはよっぽどお気に召さなかったらしい。美味しいのに。
 それにしても、餌を貰ったら撫でさせてくれるだなんて、この黒猫は随分と人馴れしているように見える。きっとこうやって愛嬌を振りまいて、道行く人から食べ物を貰っているのだろう。人間社会の中で生きる野生動物というのは、案外強かだ。
 思ったよりもふさふさだった猫の背中を撫でていると、その黒い毛からもかすかに甘い香りがすることに気がついた。あの白い花と、同じ香り。

 ──あれ、もしかして。

 「君、ここに住んでるの?」
 思わず口に出てしまっていて、自分で驚く。もちろん、言葉の通じない黒猫が返事なんてしてくれる訳もない。当の黒猫はいつの間にかさっきの煮干を食べ終わって、私にまだ期待の目を向けていた。
 もうないよ、というように空っぽの両手をひらひらとさせながら、立ち上がる。尚も私を期待の眼差しで見上げる黄色い瞳に、私は肩をすくめた。
 昨日買ってしまったお徳用の煮干は、まだ家にたくさんあったっけ。

 ──まあ、せっかくだから。

 「また、持ってくるね。」

△月□日。水曜日。
曇り、ただし、視線注意報。

 その日、私は掃除当番で残っていた。
箒で教室の隅に溜まった埃を掃きながら、あの白い花──調べたところ、ヒイラギという名前らしい──が咲いている、いつもの場所のことを考える。
 あの日から数週間、帰りがけに何度もヒイラギの木の辺りに寄るようになっていた。黒猫は本当にその辺りに住んでいるようで、行けばほとんどいつでも会うことができる。かつてカロリーメイトが入っていた鞄のポケットには、今は煮干が常備。でも沢山あったお徳用の煮干も、いつの間にかもう残り少なくなっていた。
 いつもの帰る時間を過ぎていたからか、私はかなりてきぱきと働いていたらしい。あっという間に掃除が終わって、教室を出ようとすると、
 「ありがとね、おつかれー。」
 と、声をかけられた。一緒の掃除当番の子だ。
 「…ん、おつかれさま。」
 そう、いつも通り返したつもりだった。でも、言ってからびっくりする。
 その子が、なぜかにっこり笑って私を見ていたのだ。それも、少し楽しそうに。
 なんだろう、と訝しみながら教室を出て、気づく。
 窓に映った、私の顔。その口元が、少しだけ緩んでいる。それは、かすかに浮かんだ、楽しげな表情。

 ──え…?

 さっと口元をマフラーで隠して、私は校門へと駆け出した。


 息を切らしてヒイラギの元に辿り着くと、珍しくそこに黒猫はいなかった。はぁ、はぁ、と乱れた真っ白い息を吐きながら、辺りを見回す。すると、茂みから少しはみ出ている黒いものを見つけた。
 急いで近くにしゃがみこんで、撫でてみる。すると返ってきたのは、ぶよん、という無機質な感触。

 ──あ、ただの黒いボールだ、これ。

 ボールと猫を見間違えるなんて、私はどうかしているんじゃないだろうか。
 はぁー、と長い息を吐き出して、目の前に立つ木々を見上げる。ヒイラギという名前の、白くて小さな花。よく見てみると、まだところどころ蕾があった。どうやら満開になるのは、まだ少し先らしい。その蕾を守るように茂っているトゲトゲの葉っぱは、やっぱりどこかで見たことのある形をしていた。
 しばらく考えて、ようやくその既視感の正体に気がつく。

 ──これ、クリスマスの飾りの形に、似ているんだ。

 疑問が解消できたすっきりとした気分と、ヒイラギの爽やかな香りが合わさる。空気と感情が結びついて、何だかすごく心地良く感じた。
 いつかこの香りを嗅いだら、今の感情が蘇ってくるかもしれない。なんだかそんなことを思ってしまうような、不思議な感覚だった。
 匂いと記憶の繋がり。記憶の奥底にある忘れてしまったはずの情景が、ふとした匂いで呼び起こされることがある。あれ、なんかこの匂い、知ってる気がする。なんだか分からないけど、懐かしい。そんな時、何とも言えない切なさに、胸がきゅっと締めつけられてしまう。
 未だにやや浅い呼吸を正すため深呼吸をしていると、後ろからつんつんとマフラーを引っ張られていることに気がついた。振り向くと、地面についてしまっていた私のマフラーをぐいぐい引っ張っている、黒猫の姿。せっかく深呼吸していたのに、首が締まって少し苦しい。
 でも、この子からこうやって近づいてくるのは、初めてのことだった。
 思わず、引っ張られているマフラーごと黒猫を抱き上げる。突然抱き上げられたことには全く動じずに、物ほしげに私を見つめる黄色い瞳。その無防備さに半ば呆れながらも、いつも通り鞄のポケットに手をつっこむと、それだけで黄色い瞳が輝くのがはっきりと分かった。
 なんだか少し、いじわるをしたくなる。
 空っぽの手をいつかのようにひらひらさせて、今日は何も持ってないよ、というふりをしてみる。しかし黒猫は、嘘をついているのはお見通しだ、とばかりに鞄のポケットを見つめ続けている。
 どうやらバレているようだ。私が観念して再び鞄のポケットに手を入れようとすると、急に強い風が吹きつけてきた。木々がざわめき、ヒイラギの香りが辺りいっぱいに広がる。
 その香りにつられてもう一度深呼吸すると、頭がすっきりとするのが感じられた。
 「…良い香りだよね、ヒイラギって。」
 腕の中の黒猫は、唐突に喋り出した私を不思議そうに見上げている。
 「君がここに住んでるの、少し、羨ましい──

 ──気づいたのは、その瞬間だった。

 ヒイラギの香りにかすかに混じった、あのユリの匂いに。
 びくっ、と突然身を硬くした私に驚いて、黒猫が腕の中から飛び出す。
 後ろを振り返ると、クラスメイトが三人、すぐそばを通り過ぎたところだった。

 ──見られた。

 その事実に気づくと、一人で猫に話しかけていたことが、急に恥ずかしくなってきた。その感情を自覚した途端、私の顔の筋肉が強張っていく。そのまま蝋で固められたみたいに、動かなくなる。
 どれくらいの時間が経っただろうか。気がつくとクラスメイトも、黒猫も、いなくなっていた。

 ──帰ろう。

 灰色の曇り空を一瞥し、私は早足で歩き出す。少しだけ、口元を引き結んで。

 その日、結局煮干をあげられなかったことに気づいたのは、しばらく経ってからのことだった。


△月×日。木曜日。
晴れ、ところにより、にわか雨。

 今日は、マフラーを忘れた。
 それで、何かが変わっただろうか。
 いつも通りの、長い道のり。校門を潜り、教室へ向かう。
 いつも通りの、香水の匂い。席について、本を開く。
 いつも通りの、担任のしかめ面。号令を聞き、席を立つ。
 いつも通りの、気だるい授業。頬杖をつき、話を聞く。
 少しずつ変わっているなんて、私は全然気づかなかった。
 そのきっかけが、起こるまでは。



 帰り道の途中の、端っこ。
 そこに見慣れた黒いものが、ちょこん、と丸くなっていた。いつもの場所とは少し離れている。珍しいなと思って、鞄のポケットに手を入れながら、近づく。
 でも、その手が煮干を取り出すことは、なかった。
 最初に異変に気づいたのは、赤黒く染まった、尻尾の先。
 そして、アスファルトに染み込んだ、濁った赤色。
 決して開かれることのない、黄色い瞳。
 そこにあったのは、変わり果てた黒猫の姿だった。
 多分、車に轢かれたのだろう。いつかのように、道路に突然飛び出して。
その様子が、かつて見たことのある光景であるかのように、ありありと想像できてしまった。

 ──本当に、人を不幸にするどころか、自分が不幸になっているじゃないか。

 空っぽの左手をポケットから出す。
 その手に残った1本の傷跡。目に入ったそれに、思わず手を触れる。
 もう一度視線を戻しても、目の前の光景は変わらなかった。
 そこには、変わり果てた姿があるだけだった。
 少しためらって、亡骸に近づく。
 つん、と鉄の匂いが、鼻をついた。
 それは、いつかの匂いと、同じ。
 傷跡の感触が蘇る。
 あの時と、同じ匂い。
 何かが頬を伝う感触がした。
 アスファルトに、一粒の雫が落ちる。

 ──あれ…?

 自分でも、何が起きているのか、不思議だった。
 …でも。
 一粒一粒、流れ落ちる度に。
 どうしても動かないと思っていた顔が、歪んでいく。
 がちがちに固まっていたものが、揺れ始める。
 徐々にぼやけていく視界の中で、黒猫の体を抱き上げた。
 昨日よりずっと軽くて、冷たい。
 それが示す意味に、むきだしの心が震える。

 ──…せめて。

 ──この気持ちだけは。

 小さな体を抱きしめ、私は顔をぐしゃぐしゃにして泣き出していた。


 赤く腫れた目を瞑って、泥だらけの手を合わせる。ヒイラギの下で眠る、黒猫に。

 ──短い間だったけど、ありがとう。

 枯れるまで流した涙が乾いて、頬がパリパリになっている。
 その頬を、冷たい風が撫でていく。マフラーのないむきだしの首も、その冷気に当てられた。寒いけれど、背筋がすっと伸びて、何だか心地良い。
 涙と一緒に、色々なものが流れていってしまったみたいだった。上手く言葉にできない、色々なものが。
 それが結局何だったのかは、よく分からない。でも、今となってはなんだか全てがどうでもよく思えた。
 きっと私の季節が変わり始めたんだろう。
 ほんの少しだけど、柔らかく。
 いつかまた、ヒイラギの香りで、この季節のことを思い出すのかもしれない。
 それがどれだけ先かは分からないけれど、今までの私のことを笑い飛ばしているに違いない。それは想像するだけで、何だか少し可笑しく思えてきた。
 両手でスカートを払って、立ち上がる。でも、手が泥だらけなので余計汚れてしまった。
 いつかと同じ失敗に気づき、ほんの少しだけ唇の端を上げて、苦笑する。慣れないことだったけど、不思議と無理をしている感じはしなかった。それが本来、自然なことなんだろう、きっと。
 踵を返し、ヒイラギの茂みから道路に出ようとした、その瞬間。
 視界の端に映ったのは、こちらに目掛けて走ってくる車。
 目の前の光景が、脳裏によぎった光景と、重なった。





 気がつくと、私は仰向けになって倒れていた。真っ青に晴れた空と、うっすらと白い雲がやたら広く見える。
 ぶつかった車の中から、慌てた様子で運転手が降りてきている。茂みの中から突然現れた私に、彼はさぞ驚いたことだろう。申し訳ないことをしたな。
 そんなことを考えながら、私は少しだけ苦笑を浮かべた。
 ──これであの子とおそろい、かな。
 直後、遅れてやってきた激しい痛みと共に、視界に映る青空が、端から黒く染まっていく。
 黒、黒、黒。なんだかあの子みたいだ。そう思ったのを最後に。
 私の意識は、真っ黒に沈んでいった。











△月○日。金曜日。
晴れ。

 病室の隅に飾られている、トゲトゲの葉っぱと白い花。
 満開のヒイラギから漂うのは、ひそやかな甘い香りと。
 かすかな、ユリの香り。

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