【書評】『考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門』/考える・悩む【基礎教養部】

上の本のテーマは「他者とともに考える」ことである。私はそれに対して、「一人で考えること」を考えてここに書こうと思う。上の本で主に書かれていることは、「哲学対話」についてである。自ら抱いた問いをもとに考え始め、その経過や結果を言葉にして他者と共有し合うことで世界を広げていこう、そして、世界が広がるその感覚は、それをやった者にしか分からない。そんな内容であった。私は人と話しながら考えるよりも、一人で考えることの方が多い。一人でいることが多いからである。もちろん人と一緒にいることで考えるきっかけを得られることはあるが、それについて考えるのは一人になってからである。

一人で考えるときに本当に一人で考えているのかというと、そういうわけではないことに気づく。先に書いた通り、考えるきっかけは自分の外側にあることも多い。それに、自分で考えたことは、全てではないけど、やっぱり誰かと共有したい。入力でも出力でも、常に外とつながっている。

どこにも載ってない、自分オリジナルの問いを見つけると嬉しい。そして、それを深掘りすることで、新しい世界を開拓していくことはとても楽しい。

しかし、ここで孤独を感じずに楽しんでいられるのは、その考えが真にオリジナルではないと分かっているからである。自分にしか通じない、訳では無い。少数であっても分かってくれる人がいる。そう思えるから楽しいのだ。
私は何を書こうとしていたのか。

そう、「考える」を考えるきっかけとなった上の本には載っていないことを考えて、書こうとしていたのだった。本で紹介されていたのが他者とともに考えることであったから、私は一人で考えることについて書こうと思った。そうしたら一人で考えているときも、本当に一人で考えているわけではなくて、ある意味常に他者とともに考えているのだな、と確認できた。もっと言ってしまえば、言葉を使って考える以上、他者とともに考えざるを得ないのだ。(しかし、言葉を使って考えるからこそ、他者と共有不可能になってしまうこともあるのではないか。共有不可能よりも共感不可能の方が適切か?)

「考える」と「悩む」を比較してみたい。両者は似ているように見えるが、実際はどうだろう。「考える」は問いを立てることによって始まる。では、「悩む」はどうかと聞かれてみれば、悩むきっかけと言われてもピンとこない。悩みは知らず知らずのうちに、向こうからやってきている。「考える」は能動的、「悩む」は受動的だと言えそうだ。

「考える」が前進するのに対して、「悩む」の方は堂々巡りのイメージがある。それはおそらく、「考える」には手順があって、次の一手を決めやすいのに対して、「悩む」の方はそれと対峙したときにどうすればいいかが分からないからだろう。「考える」とはすなわち、立てた問いに答えを見つけようとすることである。実際に答えが見つけられるかどうかは問題ではない。そうしようとする、そのモチベーションが前進の原動力となる。一方、「悩む」の方は形式が統一されていない。加えて、望んでなくとも向こうからやってくる。厄介である。どうしよう。

思うに、考えることと悩むことは、その方向性が違う。考えることとは分解である。問いを立て、さらに問いを問うということは、細かく分けていくことであり、「分かる」に向かっていくことである。一方で「悩み」の方は、もともとは些細な問題が、それにどう対処すればよいか分からず立ち止まっていることで、自然発生的に湧き出て増幅する負の感情と混ざり合い、大きなダマになってしまう。肥大する毒。

楽しく考えることはあっても、楽しく悩むことはない。楽しくないことは好ましくないので、どうにかしたい。そこでこんな方法がある。「悩む」を「考える」に変えてしまうのである。問いを立てるのである。「やり方」を与えられると一気に楽になる。分かってしまえば、もう怖くない。



しかし、そう分かっていても悩んでしまう。
ああ、悩ましい。

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