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池波正太郎原作『鬼平犯科帳』『仕掛人・藤枝梅安』

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伊勢神宮は20年毎に遷宮する。「1代30年」というが、20年毎に神社を建て、神社建築のノウハウを次の世代に伝えておかないと、積み上げられた宮大工の経験に基づく建築技術が失われるのであろう。地方の神明神社(伊勢神宮の分社)もそうした方がいいのだろう。

さて、今日は2/14のお返しに期待する日であるが、嬉しいニュースを聞いた。池波正太郎原作『鬼平犯科帳』『仕掛人・藤枝梅安』の映画化が決まったという。実に喜ばしい。時代劇がなくなると、積み上げられた殺陣の技術が途絶えてしまう。

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話は変わるが、人生を道にたとえるとどうなるだろう?

──「人生、山あり、谷あり」というから、「人生とは、起伏の多い道」。
──「禍福は糾える縄の如し」というから、「人生とは、複雑な道」。
複雑な道・・・無限城ならぬ、有限城、もしくは迷宮の迷路か。

私は、「人生とは、分岐点の多い道」だと思っていた。
「右へ行くか、左へ行くか」と次々に選択に迫られる道が人生だと。
神社へ行くと、「男道か、女道か」と迫られる。男道は近道だが、急な坂道である。女道は遠回りだが、緩やかな坂道である。だが、どちらの道も神社へ向かう道である。

最近の私は、「人生とは、あみだくじ」だと思っている。
人生とは「同じ場所からスタートして、分岐点で間違った方向に進んで遠回りする人もいれば、近回り出来た人もいる。でも、到着点は同じ」ではなく、「別の場所からスタートして、分岐点では選択して、到達点が異なるのが人生」だと、それは、まるで「あみだくじ」だと。
 たとえば、大学進学。大学へ行けるのは、「学ぶ意欲がある人」ではなく、「授業料を払える人」(家を離れる場合は、さらに生活費が払える人)だ。要するに「子は親を選べない」というか、「銀のスプーンをくわえて生まれてきた」かどうかで人生は決まる。民俗学や歴史学を勉強したい場合、大学へ行きたいし、進学後は教習場に通って自動車の免許を取り、車を買って、あちこちへフィールドワークへ行きたい。「銀のスプーンをくわえて生まれて」こなかった私は、親に金銭的支援を求めることはできず、noteの記事を売る。そして、数時間かけて、自分なりに一生懸命頑張って書いた記事が売れないばかりか、PV数も30程度で、「スキが付かない記事を数時間かけて書かずにバイトしていたら数千円になったのに、夢に近づいていたのに」と後悔する。
 まぁ、死ねば、皆同じで、昔は土葬だから「五大元素」(火、水、木、金、土)の1つの土に帰るが、今は火葬だから、生きてる時の「立って半畳、寝て一畳」も必要なく、必要なのは骨壷を置く30cm四方のスペースだ。

 戦国時代、武士に生まれていれば、選択の余地はなく(人生に分岐点などなく)敷かれたレールの上を歩むのであろう。ただ、武士道には、途中に門があり、その門の前では順逆(このまま主君に従うか、背くか(主君を討つか、主君を変えるか))迫られるようではある。

 『鬼平犯科帳 THE FINAL』「後編 雲竜剣」の最後で、鬼平が、「人は良い行為もするが、悪い行為もする。その両方を含めて、その人なのだ」というようなことを言っていて、それが「順逆無二門」なのかなとも思った。

順逆無二門(武門に是非は無く、)
大道徹心源(私は武士道というレールの上を歩いてきた。)
五十五年夢(私の夢(55年間の人生)は終わり、)
覚来帰一元(夢から覚めた(死期を迎えた)今は、一元(土)に帰る。)

■関連記事:「明智光秀と妻、家臣(明智光春)の辞世」
https://note.com/sz2020/n/n81a2d608b0e0

教科書に載っていた高村光太郎の『道程』
>僕の前に道はない
>僕の後ろに道は出来る
の気分に、私は道程、いや、到底なれない。
この詩は、未来に希望を持ってる人だけが書ける詩だ。
先に道がなければ、立ち止まるか、引き返す。
「なんとかなるさ」と、明るい未来を信じて先へ進むことはない。

もうすぐ新年度が始まるというのに、私は何をしているのだ!

(写真:東海道藤枝宿の神明神社と梅安生家跡)


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