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明智光秀と妻、明智光春の辞世

 「辞世(じせい)」とは、「死に際に詠んでこの世に残す俳句、和歌、漢詩など」のこと。時々「辞世の句」と聞くが、これは「馬から落馬」と言っているようなもので、正しくは「辞世」である。
「死ぬ瞬間に辞世を考え、書く時間はないなず(辞世は存在しない)」
と言う方がおられるが、「武士のたしなみ」として、生きているうちに詠み、「死んだら公表して」と誰かに預けていたり、辞世を書いた紙を持って戦場に赴いたという。(今で言えば、遺言書を弁護士に預けておくとか、常に辞表を持って会社(現代の戦場)へ向かう(出勤し、リストラ覚悟で、会社のために苦言を言う)ってこと?)もちろん、切腹の時は、前から考えていた辞世を短冊に書く時間はある。

1.明智光秀の辞世

 明智光秀は、「本能寺の変」後、妙心寺に入って辞世を書いたという。そして、小栗栖で自害する時、明智小兵衛(溝尾庄兵衛)に渡したという。(『明智軍記』)

順逆無二門(武門に是非は無く、)
大道徹心源(私はブレずに正道を歩いてきた。)
五十五年夢(私の夢(55年間の人生)はあっという間に過ぎ、)
覚来帰一元(夢から覚めた今は一元(生命の根源としての土)に帰る。)

■吉川英治『新書太閤記』
「さいごのおことばは」
「順逆無二門――の一偈であった」
「順逆無二門――と仰っしゃいましたか」
「たとえ、信長は討つとも、順逆に問わるるいわれはない。彼も我もひとしき武門。武門の上に仰ぎ畏むはただお一方のほかあろうや。その大道はわが心源にあること。知るものはやがて知ろう。――とはいえ五十五年の夢、醒むれば我も世俗の毀誉褒貶に洩れるものではなかった。しかしその毀誉褒貶をなす者もまた一元に帰せざるを得まい。……そんな御鬱懐を吐かれて御自刃遊ばした」
■加藤廣『秀吉の枷』
  逆順無二ノ門
  大道ハ心源ニ徹ス
  五十五年ノ夢
  覚メ来リテ一元ニ帰ス
         (明窓玄智禅定門)
(逆らうか、従うかというがそれは唯一の同じ門である。人として悟るべき広い道はその心の源に発するもの。私の五十五年の生涯の夢は、覚めてみれば順も逆もない、一つに帰着するのである)
 自作が事実ならば、これは見事な見識である。単なる私利私欲で天下を取ろうとする野心家に、到底詠める心境ではない。
 光秀の行動は、良識と勇気ある信長の家臣なら、だれもが行わなければならない人臣の道だった。
 それをこの男だけがやり遂げた。
 それが「本能寺の変」である。


2.明智光秀の妻の辞世

 明智光秀の正室・斎藤牧が、坂本城の落城時、自害に際して詠んだ和歌(『真書太閤記』)。

 はかなさを誰かをしまん 朝がほのさかりを見せし花もひとゝき

■参考記事:戦国未来さん「明智光秀の妻の辞世」
https://note.com/senmi/n/n98602600cceb

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