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明智光秀の妻の辞世

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「そういえば」崇は二人を見て続けた。「今の話に関連して、こんな歌があるんだ。

 はかなきを誰か惜しまん朝顔の
   盛りを見せし花もひと時

 どうだい」
「どうだい──って言われても」沙織が首を傾けた。「そのままじゃないですか。朝顔の花は、一瞬だけ美しく咲いて色褪(あ)せてしまったけれど、それを誰が惜しもうか、いや惜しむまい──ということですよね。それが何か?」
「実はこの歌はね、明智光秀の妻の辞世なんだよ」
「え……。ということは」
「第一の意味は、沙織くんの言った通りだ。そして第二の意味は、朝顔の花に自分を仮託して、自分の人生も一瞬の盛りを見せたけれど、もう終わってしまう、でもそれも仕方ないのだろう……というような意味になる。ここまでが本などに載っている一般的な解釈だ」
「でも、朝顔というのは!」
「そうだ、奈々くん。朝顔というのは、今言ったように紛れもなく桔梗のことなんだ。とすれば、まさにこの歌は一瞬にして光秀、いや明智の家を詠(よ)んだ歌に変貌するというわけだ」
「ああ……」

 はかなさを誰か惜しまん「明智家」の
   盛りを見せし……

 そういうことか。
「しかし、これは俺の勝手な意見だからね。保証はできないよ」
 崇は笑ったけれど──。
 だがおそらく、間違いないだろう。
 明智は一瞬だけ天下を取った。そしてすぐに滅亡してしまったけれど、それに関して誰も後悔などしていないという意味になる。
 光秀の妻は、自らの死を目の前にして、桔梗の花が目の前に浮かんだのだ。しかし、歌に直接「桔梗」と詠み込んでは、余りにもあからさまだ。そして、当時はまだ「光秀=悪」という、作り上げられたイメージが世の中を席巻(せっけん)していただろう。そこで、わざと「朝顔」という言葉を選択した。分かる人にだけ分かれば良い、と。
 まさに「誰か惜しまん」だ……。
 いつも崇が言っているように、昔の歌は一筋縄ではいかない。必ず何かしらのメッセージがこっそりと隠されているということだ。常に二重三重の意味を持って、我々の目の前に静かにたたずんでいる。

 高田崇史の人気シリーズ『QED』の第12弾『QED ~ventus~ 御霊将門』(講談社)は、平将門の話ですが、165ページから175ページまで、10ページに渡って「桔梗」について書かれており、「明智光秀の妻の辞世」が登場します。

 〽はかなさを誰か惜しまん朝顔の盛りを見せし花もひと時

「朝顔の盛りを見せし花もひと時」と聞き、さらに「明け方に詠んだ歌」と聞けば、「朝顔は朝しか咲かず、昼にはしぼむ。盛りは朝のみ。短い」と納得してしまうのですが、「朝顔」は「桔梗」のことで、「朝顔の盛りを見せし花もひと時」とは、天正10年6月2日早朝の「本能寺の変」後の「(家紋が桔梗の)明智光秀の三日天下」のことであり、この歌は、「本能寺の変」の12日後の天正10年6月14日に坂本城が落城した時に詠まれたのだそうです。

 この辞世の歌意は、表が「朝顔が咲き誇るのは朝だけで短いが、その儚さを誰か惜しむというのか(誰も惜しまない)」、裏(真意)は、「桔梗(明智光秀)が咲き誇ったのは三日だけだが、その儚さ(短さ)を誰か惜しむというのか(誰も惜しまない)」となります。
 「朝顔(明智光秀)は、たとえ短くても咲き誇った時期があったので素晴らしい」と称賛する歌だということでいいとして、問題は詠み手です。明智光秀の正室・妻木煕子は、「本能寺の変」の数年前に死亡しているのです!

 ──では、坂本城にいて、この辞世を詠んだ「明智光秀の妻」は誰か?

 まさか、駒ではないでしょう。(駒は、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』に登場するオリジナルキャラ(架空の人物)です。)

 可能性の高いのは、『明智軍記』などの二次史料で、坂本城にいて「明智光秀の妻」の介錯をしたという明智左馬助の妻・於岸の方(明智光秀の長女。享年31)ではないかと思い、調べてみたのですが、「於岸の方は、天正10年6月16日、明智左馬助の居城・周山城で自害した」とありました。

 一次史料『兼見卿記』(正本)には、その場にいたのは、明智左馬助ではなく、「高山次右衛門」(「坂本之城、天主放火云々。高山次右衞門付火切腹云々」。「高山次右衛門」は「明智治右衛門尉光忠」の本名)とあるので、明智光忠の妻・於里の方(明智光秀の次女。享年29)ではないかと思い、調べてみたのですが、「於里の方は、天正10年6月16日夜、明智光忠の居城・八上城で自害した」とありました。
 なお、「云々」の訳は「以下略」ではなく、「~だそうだ」であり、伝聞なので、史実ではないかもしれないとのこと。

 ──じゃあ、誰? 継室のフサ?

 千葉県の伝承では、坂本城にいたのは明智光慶と彼の母であるフサとしていますが、この「明智光秀の妻」の辞世が掲載されている栗原柳庵編『真書太閤記』では、明智光慶の母である妻木煕子は亀山城にいて、坂本城にいた「明智光秀の妻」を斎藤利三の姉「於牧の方」だとしています。(『麒麟がくる』の「於牧の方」は、明智光秀の母の名ですけどね。)

『真書太閤記』
「左馬助光春諸士の必死を止くる事。并明智の侍所々へ分散の事」

 明智日向守光秀の妻は、斎藤内蔵助利三の姉なり。才智、世に優(すぐ)れ、殊に軍略に賢(さか)しければ、光秀も深く是を重んじけり。兵糧積(つも)りよりして、鉄砲、弾薬の指し引き、すべて、陣中の諸要を心に込めて取り賄(まかな)ひしかば、諸武士、中間、小者、末が末まで大名の内室には有り難き人に取り囃しけり。
 一説に、妻木主計頭範賢の姉・照子(てるこ)といひ、一説に、伊賀国名張城主・服部出羽守保章の女と云ひ、又、一説には妻木勘解由左衛門範照が女といひ、或は丹波国の者といふ。但し、妻木氏は、十兵衛光廣[注:光慶]の母にして、亀山城に自殺すと云へば、今、坂本に在りて、幼息を落としつるは斎藤氏なること明らか也。
(注)「照」と「煕」、「廣」と「慶」の草書体が似ているので混同?
「左馬助珍器を寄手へ贈る事。并坂本落去光秀一族自殺の事」
 兎角する中(うち)に、夜も朗々(ほのぼの)と明け渡れば、左馬助、本丸に入り、斯々(かくかく)取り計らひし由を申しければ、於牧の方も大に悦び、「最早、此の世に思ひ置くことなし。然(さ)れば故殿(こどの)に追ひ付いて、此の形状(ありさま)を語り申さん」と云ふかと見れば、天寿丸[注:乙寿丸]とて8歳の男子の有りけるを引き寄せて刺し殺し、
 はかなさを誰かをしまん朝がほのさかりを見せし花もひとゝき
と書き終はり、9寸5分の剣を胸に押し当て、紅(あけ)に成りてぞ失(う)せにけり。行年(ぎょうねん)48歳。

※参考記事:明石白様「明智光秀の妻 煕子の辞世 戦国百人一首㉚」
https://note.com/akashihaku/n/n7463694e2b51


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