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第21回「長篠を救え!」(復習)

【徳川家康略年表】
天文11年(1542年)12月26日 徳川家康誕生
天文24年(1555年)3月   徳川家康、元服
永禄3年(1560年)5月19日 「桶狭間の戦い」(岡崎城へ帰還)
永禄4年(1561年)4月11日 「牛久保城攻め」(今川氏から独立)
永禄5年(1562年)1月15日 「清須同盟」(織田信長と和睦)
永禄5年(1562年)2月4日  「上ノ郷城攻め」(人質交換)
永禄6年(1563年)7月6日  「元康」から「家康」に改名
永禄6年(1563年)10月   「三河一向一揆」勃発
永禄7年(1564年)2月28日 「三河一向一揆」終結
永禄8年(1565年)11月11日 二女・督姫(母:西郡局)誕生(旧説)
永禄9年(1566年)5月      松平家康、三河国を平定
永禄9年(1566年)12月29日「松平」から「徳川」に改姓。「三河守」に。
永禄11年(1568年)10月   織田信長、足利義昭と共に上洛
永禄11年(1568年)10月18日 足利義昭、征夷大将軍に任官
永禄11年(1568年)12月6日 武田信玄、駿河国へ侵攻開始(第1次侵攻)
永禄11年(1568年)12月13日 徳川家康、遠江国へ侵攻開始
永禄11年(1568年)12月18日 徳川家康、引間城を奪取
永禄12年(1569年)5月15日  掛川城、開城(遠江国平定)
永禄13年(1570年)3月    徳川家康、上洛
元亀元年(1570年)4月30日 「金ヶ崎の退き口」  
元亀元年(1570年)6月28日 「姉川の戦い」
元亀元年(1570年)9月12日  徳川家康、浜松城に移る。
元亀元年(1570年)10月   徳川家康が、武田信玄との同盟を破棄
              →上杉謙信と「三越同盟」を締結
元亀元年(1570年)11月   松平勝俊、下山を脱出して浜松へ至る。
元亀3年(1572年)10月3日 武田信玄、「西上作戦」を開始
元亀3年(1572年)12月22日 「三方ヶ原の戦い」
元亀4年(1573年)4月12日 武田信玄、死没。享年51。
天正元年(1573年)9月21日 武田勝頼、奥平家の人質を処刑
天正2年(1574年)2月8日  お万の方、於義丸(後の結城秀康)を生む。
天正2年(1574年)6月18日 武田勝頼、高天神城を落とす。
天正3年(1575年)3月19日 武田勝頼、足助城を落とす。
天正3年(1575年)4月3日   大岡弥四郎忠賀、刑死(鋸挽きの刑)
天正3年(1575年)5月16日 鳥居強右衛門勝商、刑死(磔刑)
・・・(今回ここまで)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天正3年(1575年)5月21日 「設楽原の戦い」
天正4年(1576年)12月22日 亀姫、奥平信昌と結婚(7月説あり)
天正10年(1582年)3月11日 武田勝頼、自害(武田氏滅亡)。享年37。
天正10年(1582年)6月2日  織田信長、死没(本能寺の変)。享年49。
慶長3年(1598年)8月18日  豊臣秀吉、死没。享年62。
慶長5年(1600年)9月15日  徳川家康、天下人になる(関ケ原の戦い)。
慶長8年(1603年)2月12日  徳川家康、江戸幕府を開設
元和2年(1616年)4月17日  徳川家康、死没。享年75。

 今回は「長篠の戦い」の話であるが、「鳥居勝商の激走」と「亀姫の決断」(織田信長と徳川家康で勝手に結婚相手が決められていたことの受諾)がクローズアップされた。

 奥平氏については、以前調べたので、取材ノートをもとにこの記事を書く。(奥平氏については、複数の家紋がある。「真の家紋」は、毎年GWにこっそりと公開されているが、今年も見に行けなかった。車が欲しい。あるいはレンタカーを借りるお金が欲しい。金欠は苦しい。記事がどんどん売れて欲しい。サポートも切実期待!)


1.「長篠の戦い」に至る経緯

元亀4年(1573年)4月12日   武田信玄、死没。享年51。
元亀4年(1573年)7月   徳川家康、長篠城から長篠菅沼氏を追い出す。
元亀4年(1573年)7月28日 「天正」に改元
天正元年(1573年)8月20日 徳川家康、奥平氏へ「七ヶ条の御誓書」
天正元年(1573年)9月21日 武田勝頼、奥平氏の人質を処刑
天正2年(1574年)5月18日  武田勝頼、高天神城を落とす。
天正3年(1575年)3月19日  武田勝頼、足助城を落とす。
天正3年(1575年)4月3日    大岡弥四郎忠賀、刑死(鋸挽きの刑)
天正3年(1575年)5月8日    武田勝頼、長篠城を包囲

 奥三河の信濃国との境目の国衆「山家三方衆」(作手奥平、田峯菅沼、長篠菅沼)は状況により主君を変えた。今川氏が三河国を統一すると今川義元に従属したが、徳川氏が三河国を統一すると徳川家康に従属した。そして、武田信玄が侵攻して来て、武田信玄に従属するが、武田信玄が亡くなると雲行きが怪しくなった。武田信玄の死の3ヶ月後、徳川家康は長篠城を奪回した。その1ヶ月後、徳川家康は奥平氏へ「奥平貞昌と亀姫の結婚」「本領安堵」などと書いた起請文「七ヶ条の御誓書」を渡し、奥平氏に従属させた。この奥平氏の寝返りを怒った武田勝頼は、奥平氏の人質3人(奥平貞昌の妻・於フウ(16歳)、奥平貞昌の弟・仙千代(13歳)、周防勝次の子・虎之助(16歳))を処刑した。(ドラマで奥平貞昌が「もう武田には戻れない。徳川様を信じるしかないのじゃ」と言っていたのは、この3人のことがあるからでしょう。)
 その後、武田勝頼は破竹の勢いで領地を広げた。言い換えれば、徳川家康の領地はどんどん削られていった。(「徳川は風前の灯」(by 望月千代))
 天正3年(1575年)5月8日、武田勝頼は、長篠城を包囲した。この時の長篠城主は、徳川家康の娘婿になる予定の奥平貞昌であった。

2.「長篠の戦い」

5月  8日 武田勝頼、長篠城を包囲
5月10日 徳川家康、織田信長に援軍を要請
5月12~14日 武田勝頼、長篠城を攻撃
5月13日 織田信長、岐阜城を出発
5月14日 織田信長、岡崎城に到着
      鳥居勝商、長篠城を脱出
5月15日 鳥居勝商、岡崎城で織田信長に謁見
5月16日 武田軍、鳥居勝商を捕縛→処刑
5月17日 織田信長、徳川家康と野田(牛久保?)で合流
5月18日 織田信長、徳川家康と設楽ヶ原に到着
5月20日 酒井忠次、鳶が巣砦を急襲
5月21日 「設楽原の戦い」
5月22日 織田信長、古呂水坂で長篠城主・奥平貞昌を賞賛
5月25日 織田信長、岐阜に凱旋

 武田勝頼は長篠城をすぐに落とさなかった。火矢を射ち込めばすぐに落とせたであろうが、交通の要所にある城なので、破壊せずに、すぐに使おうと思っていたという。また、ドラマで井伊万千代が言っていたように、徳川家康をおびき寄せる餌とするために落とさなかったとも考えられる。
 徳川家康は「単独で戦ったら負ける」と思い、織田信長に援軍を要請するが断られたという。「長篠の戦い」の3年後に書かれた『長篠日記』によれば、「援軍を拒否したら清須同盟を打ち切る」と言ったところ、渋々同意したとある。(原文では「清須同盟」ではなく、「30年来の申し合わせ」とある。30年って・・・尾張人質時代からの同盟???)
 ドラマの織田信長も「清須同盟を打ち切る」と言われて不機嫌になり、余興なのか、「家臣になれ」と言った。実際、この頃、徳川家康が織田信長の家臣になった形跡がある。上手く史実を盛り込んだものだと感心した。

3.鳥居強右衛門

 ナビで長篠城⇔岡崎城を検索すると、
 距離:48.2km 所要時間:9時間58分
と出た。片道50km、徒歩10時間!
 もちろん、鳥居勝商がこの道を走ったかどうかは不明(「戦国街道ラン」は65km)であるし、寄り道して狼煙をあげているので、正確な数字ではないが、だいだいこんな感じである。

5月14日 深夜、長篠城を脱出する。
5月15日 岡崎城で徳川家康&織田信長に謁見後、長篠城へ。
5月16日 深夜、長篠城の近くで捕縛さる。
5月17日 早朝、長篠城の近くで処刑さる。

 50kmというと、マラソンランナーなら、いい条件(軽くて丈夫な靴、給水、舗装道路)であれば、3時間あれば十分だと思われる。鳥居勝商にしたら「出来る限り早く。出来れば半日で」と思っていたのではないだろうか?
 私なら、豊川を泳いで下り(舟を見つけたら盗み)吉田城へ。吉田城からは馬で岡崎へ行くけどな。

 鳥居勝商の磔図はなぜ裸? なぜ裸足?
 多分、脱がせて、着物や靴(はばき)に徳川家康からの密書が無いか徹底的に調べたのでしょうね。

 なぜ口かせをされていない?
 私なら、余分な事を叫べないように口かせをした上で、長篠城から見える場所で処刑する。
 ちなみに、鳥居勝商が「援軍は来る」と叫んだのは川原で、処刑されたのは武田軍の陣地。この処刑地には石碑が建てられたが、邪魔だからと現在地に移された。

 なぜミュージシャンの岡崎体育さん?
 自分を励ます歌を歌うからかな?

 今では「鳥居権現」という神様。
 「ろくでなし強右衛門」という設定を受け入れられない人もいるかと。

 ちなみに、ドラマでは、「呼んで参りましょうか? 徳川様を」と気軽に言っていたが、実は違うようだ。長篠城の評定で使者を遣わすことになったが、(「高天神城の戦い」では、使者の向坂牛之助が殺されたので)誰も使者になりたくなかった。この時、鳥居強右衛門が「自分は身分が低く、失う物は何もない。ただ、息子の出世を願うのみ」と言って引き受けたという。(結果、息子には100石が与えられた。)

https://www.kadokawa.co.jp/product/199999132314/

4.【補足解説】亀姫と奥平信昌の婚約

  水野清忠┬水野忠政┬水野信元
      └女子  └於大の方─徳川家康─亀姫
         ├──── 奥平貞能─奥平貞昌(信昌)
        奥平貞勝

 元亀4年(1573年)、徳川家康は、奥三河の武田方「山家三方衆」の奥平氏(亀山城)を味方に引き入れようとし、使者・本多重次を送ったが良い返事を得られなかった。しかし、元亀4年6月22日、奥平貞能は、徳川家康へ、夏目冶員を使者として、武田信玄の死は確実なことと、奥平貞能・貞昌親子の徳川帰参(奥平貞勝は反対)の意向を伝えた。
 そこで徳川家康は織田信長に武田信玄の死を伝えるとともに、今後のことを相談した。織田信長は、武田信玄の死を知って上機嫌になり、「徳川家康の長女・亀姫を奥平貞能の長男・奥平貞昌に与え、奥平氏との繋がりを確固たるものにすべし」と使者・西尾吉次を通して伝えてきた。徳川家康は、織田信長の意見を受け入れた。
 天正元年(1573年)8月20日、奥平貞能は亀山城を出て(世に言う「貞能の腹芸」)滝山城(「亀穴城」とも。愛知県岡崎市宮崎町堂庭)に入った。武田軍との激戦(山中でのゲリラ戦)「滝山合戦」になったが、徳川軍が向かっているとの情報を得た武田軍は退却を始め、撤退戦「田原坂の戦い」では多くの死者を出した。その後、徳川軍は武田軍の本拠地・古宮城を落とした。
 こうして奥平貞能&貞昌父子は徳川家康の家臣となった。
 奥平貞能&貞昌父子の徳川帰参を受け、武田勝頼は、奥平貞昌の妻・於フウ(16歳)、奥平貞昌の弟・仙千代(13歳)、周防勝次の子・虎之助(16歳)を、天正元年(1573年)9月21日に処刑した。
 改名した奥平信昌(旧・貞昌)は、長篠城の破損が激しかったので、天正3年(1575年)、(「新城市」の市名の由来である)新城城(愛知県新城市東入船。現・新城小学校)を築き、翌年、亀姫を迎え入れた。記録上は「天正4年(1576年)12月22日、亀姫は輿に乗り、西尾吉次が警護して新城城に入った(結婚した)」であるが、実はこの輿は空であったという。襲撃を恐れ、7月に、藤尾某が亀姫を背負って、密かに入城したという。
 亀姫(加納御前、加納の方)は、織田信長の娘・五徳の振る舞いを見ていたからか、気性が荒く、徳川家康の娘というプライドを持ち、奥平信昌が側室を置くのを禁じた。美濃国厚見郡加納(現・岐阜県岐阜市加納)では、勝気な女性のことを「カメヒメサマ」と呼ぶ。

※「家康没後400年に際して -亀姫1-」(小田原市立足柄小学校)



★今後の『どうする家康』 後半

・第22回「設楽原の戦い」(6/11)
・第23回「瀬名、覚醒」(6/18)
・第24回(前半終了)「築山へ集え!」(6/25)
・第25回(後半開始)「築山事件、信康事件」(7/2)
・第26回「武田氏滅亡」(7/9)
・第27回「安土城で明智光秀が接待」(7/16)
・第28回「本能寺の変」(7/23)
・第29回「神君伊賀越え」(7/30)
・第30回「賤ヶ岳の戦い」(8/6)
・第31回「豊臣秀吉との確執」(8/13)
・第32回「小牧・長久手の戦い」(8/20)
・第33回「於義丸を豊臣秀吉の人質(養子)に」(8/27)
・第34回「石川数正出奔」(9/3)
・第35回「
・第36回「
・第37回「
・第38回「
・第39回「
・第40回「
・第41回「
・第42回「
・第43回「
・第44回「
・第45回「
・第46回「
・第47回「
・第48回(最終回)「


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