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鳥居強右衛門と鈴木金七郎

 天正3年(1575年)の「長篠の戦い」の時、徳川家康に長篠城の状況を知らせ、援軍を要請する使者に名乗り出たのが鳥居強右衛門です。
 この時、長篠城主・奥平貞昌は、鳥居強右衛門のやる気を認めたものの、1人では心もとないとして、鈴木金七郎を付けました。

信昌、其の志を感じ、「左有らば何卒忍び出で、注進為すべし。併せて、1人にては心許無し。鈴木金七こそ水練上手なり。其の上、物馴れし者」(『長篠日記』)

 鈴木金七郎が選ばれた理由は、①水練が上手、②物馴れしている、でした。「物馴れ」の意味が分かりませんでしたが、鈴木金七郎の役目は、鳴子網の突破と狼煙をあげることだけだったようですから、「物馴れ」とは、「狼煙を何度もあげたことがあり、手順を心得ている」ということかな? 私の説は「生まれ育った場所なので土地勘がある(豊川や雁峰山などの地理に詳しい)」ですけどね。(そりゃ「地馴れ」だろ;)

1.鳴子網を突破する。

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 長篠城の撮影スポットとして超有名な豊川に架かる牛渕橋のたもとに「鳴子網架設地」の案内板が立っています。

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※「長走」に「鳴子網 鳥居、鈴木両士、渡合門より出て水中を潜り、鳴子網を破て、必死の使いを勤む」とあります。

 鳥居強右衛門と鈴木金七は5月14日の夜、渡合門(野牛門)から密かに長篠城を出て、川へ入った。鳥居強右衛門も鈴木金七郎も水泳の達人で、鈴木金七郎は地元民なので豊川の深浅もよく知っていた。長走(今の牛渕橋のあたり)に鳴子網があって、番人がいた。

鳴子網:「鳴子(なるこ)」は、絵馬のような形状の木の板に、竹や木片を取り付けた道具。揺れると音が出る。これを縄に結びつけ、地上から低い位置に張り巡らす。侵入者がこの仕掛けがあることを知らずに通ると、縄に足が掛かり、揺れて「カラカラ」と音を立て、侵入したことがばれる。
 鳴子網は、鳴子の下に網を付けた物で、網は水中、鳴子は水上にあり、網に何かが掛かると音を出す。

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■月岡芳年『美談武者八景』「長篠の夜雨」(明治元年)
 武田勝頼、徳平(とくだひら。徳川)が長篠の城を囲んで攻むる事、急の城兵、克(よ)く防戦倣(な)すといへども、糧(かて)つきて、落城旦夕(たんせき)にせまる。茲(そ)より忠士鳥居強右衛門、信長に急をつげるの命を受け、城外へ忍び出る。維時(ときこれ)天正三年五月、夜の雨列(はげ)しきをり也とぞ。

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 鳴子網の網は、魚が掛かって鳴りっぱなしでは困るので、目が超粗かったという。それで小刀で数箇所切れば、人が通れるようになるという。まぁ、私だったら、舟とか丸太を流して、それに紛れて通るけどね。(そもそも、鳴子網って、風が吹いても鳴りそう。使えるの? 必要あるの? 川を使って武器や兵糧が大量に長篠城へ運び込まれたら武田軍としては困るけど、数人が城から抜け出しても戦況に大差ない気がする。捕らえて城内の様子を聞きたかったのか? 逆に長篠城側では、数人の忍者が城内に入って放火でもされたら大変だから、鳴子網を仕掛けたいと思ったはず。)

 潜水したままで網を切って通過するには1分間は息を止められないと無理だと思う。実際、鳴子を鳴らしてしまったが、番人・今井新介が、「この時期には鱸が遡上する。鱸であろう」と薀蓄を語って調査しなかったので、難を逃れた。(鈴木だけに鱸か? 洒落か?)

鱸(スズキ):全長1mを超える巨大魚、出世魚。湾口部や河口部に住むが、春〜秋にかけての水温の高い時期は、河川をかなり上流まで遡上する。(巨大な鱸は1度しか見たことない。セイゴ(30cm弱の鱸)は浜名湖なら陸釣り(夜釣り)で簡単に釣れる。)鱸は、昼間はあまり動かないが、夜になると動き出す。(遡上といえば、「設楽原の戦い」後、豊川に浮かんだ死体を、三河湾から超巨大蛸が遡上してきて食べたという奇談がある。史実だとしたら、元ネタは、「三河湾の海賊が、死体が身に着けている武具を奪いに来た」か?)

 2人は豊川を泳いで下り、「広瀬」と呼ばれる浅瀬で上陸し、川上村の鈴木金七郎の家(愛知県新城市富永屋川)へ行き、着物を着て、松明を持って狼煙をあげるために雁峰山へ向いました。(馬はないのかな? 馬は長篠城の厩にいるのかな?)

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