短編時代小説『貞能の腹芸』

 ──元亀4年4月12日、巨星堕つ。

 この日、戦国の雄・武田信玄が亡くなった。彼の遺言は、その死を3年間隠すことだったという。武田信玄の死をいち早く徳川家康に伝えたのは、三河国作手(現在の愛知県新城市)の国衆・奥平貞能(おくだいらさだよし)である。彼は、徳川家康の家臣であったが、周囲の国衆が次々と武田信玄に従属していったので、彼の父・奥平貞勝が武田信玄への従属を決意すると、奥平貞能も渋々父の決定に従ったのであるが、心はまだ徳川家康にあったのである。

 徳川家康は、この徳川から武田に寝返った裏切り者からの連絡を半信半疑で聞くと、武田方の菅沼正貞が守る長篠城を攻めてみた。武田信玄が出陣してくるかどうか試したのである。この時、武田軍は出陣し、徳川家康を挟み撃ちにする作戦を立てたのであるが、奥平貞能が徳川家康に漏らしたので、この作戦は失敗した。

 ──何かおかしい。内通者がいるのではないか?

 そう考えた武田軍は、

 ──奥平貞能が怪しい。

として、奥平貞能を玖老勢(くろぜ)の武田軍の陣営・塩平城に呼びつけた。奇しくも、その日は、徳川軍が作手(つくで)の奥平貞能の居城・亀山城に入る日であった。

 ──しまった、ばれたか。

 奥平貞能は、武田軍の呼び出しを無視して、亀山城で徳川軍の到着を待てばよかったかもしれないが、10人程度の従者を引き連れ、堂々と塩平城へと向かった。今なお語り継がれる「貞能の腹芸」の始まりである。

 ちなみに、この時、塩平城にいたのは、武田左馬助信豊、土屋右衛門尉昌次、八千余騎であり、武田勝頼は菅沼貞吉の居城・田峯城、馬場美濃守信房は鳳来寺領・ニつ山、甘利左衛門尉晴吉は作手の亀山城から一キロほど北にある古宮城に入っていた。

 塩平城へ行くと、田峯菅沼の家老・城所道寿と、武田信豊の家老・小池五郎左衛門が揃って出迎え、

「この頃、徳川家に内応の聞こえあり。しかるに、今日の来陣、神妙なり」

と言ったという。当時は内通の疑いが持たれた時点で、問答無用で誅殺することもあったので、この言い回しは、「死を覚悟で、よくぞ参られた」と、彼の度胸に感服した言い回しであろうが、この時点では黒か白かまだ分からず、「今日は徳川軍が到着する日だと密告があったが、よくぞ参られた」と皮肉を込めた程度の言い回しであったかもしれない。これに対し、奥平貞能は、怯(ひる)むこと無く、

「かかる時節には、人々、区々にして、父は子を疑い、子は父を疑う。しかれども、先に人質を奉るの上は、何の二心かあるべき」

と答えた。奥平貞能が主君を徳川家康から武田信玄に変えた時、武田側から、「忠誠の証として妻を人質に出すように」と言ってきたが、妻(牧野成種の娘)は病弱であったので、二男・仙千代(当時十歳)、長男・貞昌の許嫁とも妻ともされる奥平貞友(日近奥平家)の娘・於フウ(当時十三歳)、奥平勝次(萩奥平家)の子・虎之助(当時十三歳)の三人を人質に出していた。奥平貞能は、「徳川家康に内通すれば、この三人の人質は殺されるので、内通はしない」と言い切ったのである。

 その後、取り調べが始まった。武田信豊は障子の向こう側で奥平貞能の話を聞き、様子を窺(うかが)っていたが、怪しい点が無かったので、障子の向こう側から出てきて、

「この程の風聞、あえて信ずるに足らずといえども、また、捨て置くべきにもあらざるが故に招くところなり」

と無礼を詫た。奥平貞能は、

「某(それがし)一度、徳川家に属し、また、御味方に参りしが故、さだめて三河の者ども、これを憎み、相図りて讒(ざん)せしならん。かかる例(ためし)、少なからず。その反間(はんかん)に陥り給ふべからず」

と言った。つまり、「これは、私のことを『主君を頻繁に変える風見鶏』だと嫌っている人物の讒言(ざんげん。陥れるための嘘)であり、反間計(はんかんけい。嘘を流して内部から混乱させる作戦)である。よくある話であるから気にしていない」と言ったのである。

 こうして武田信豊は、奥平貞能を信用したのであるが、最後のテストを行うことにした。武田信豊は、奥平貞能に囲碁を申し込み、対局中、家老・小池五郎左衛門に命じ、待機している奥平貞能の従者に向かって次のような嘘を言わせたのである。

「貞能、逆心顕れしにより、討ち取たり」

ところが、従者たちは、あらかじめ奥平貞能に「もし、儂(わし)を討ったと言われても、儂の首を見るまで信じるな」と言われていたので、少しも驚かず、「主(あるじ)に限って逆心はないから、それは有り得ない」と言い返した。こうして最終試験をパスした奥平貞能一行が作手に戻ろうとして城門を出ると、城所道寿が城から飛び出してきた。

 ──しまった、ばれたか。「徳川軍が亀山城に入った」という知らせが届いたのであろう。

と観念すると、城所道寿は、

「作手までは遠く、日も暮れに及ばんとす。夕膳をまいらすべし」

と言った。こうして奥平貞能一行は夕食をご馳走され、無事、作手の居城・亀山城に戻ったのである。この時、まだ徳川軍は到着していなかった。

 ──遅いな。

と思っていると、古宮城から使者・初鹿野伝右衛門信昌が来て、

「一族の人質を速やかに古宮城に入れるべし」

と言った。「そのうち、徳川軍が到着する」と思っていた奥平貞能は、「承知した」と即答して使者を返し、「七族五家老」(奥平氏の庶子七家の長と五人の家老)に向かって、「儂の命令があるまで静かに待て」と言った。

 武田方は、今日の逆心を確信していたのか、しばらくすると古宮城から小笠原新弥と草間備前が監視にやってきた。奥平貞能は、わざと明るく振る舞い、一緒に風呂に入り、酒を飲んだ。そうするうちに日付が変わり、「逆心して、今日、徳川軍が迎えに来る」というのはデマだと分かったようで、監視に来た二人は古宮城へ帰っていった。しばらくして古宮城から、「もう夜であるから、人質を古宮城に入れるのは明朝でよい」と言ってきたという。

 ──疑いは晴れた。

と思った奥平貞能は、弟たち(奥平常勝と奥平貞治)に逆心を告げると、密に亀山城を脱出し、滝山城へと向かう道の途中で奥平貞昌らの到着を待った。

 ──敵を欺くにはまず味方から

という。亀山城に残った奥平貞昌が、叔父(父・奥平貞能の弟)の奥平常勝と奥平貞治に会いに行くと、二人の心はまだ決まっておらず、「祖父(父・奥平貞能の父)・奥平貞勝に相談して決める」という。そして、その奥平貞勝は、奥平貞能の逆心を聞き、

「これらの事あらんには、かねて告聞すべきに、心得ざることなり」

と大いに怒ったという。確かに、こんな重大事を父・奥平貞勝に相談せずに決めてしまった息子・奥平貞能は不忠者であろうが、先に書いたように、武田方につくと決めたのは奥平貞勝であるので、最後の最後まで言えなかったのであろう。今思うと、先の「父は子を疑い、子は父を疑う」時代であるという奥平貞能の言葉は、自分に向けて発した言葉なのかもしれない。

 この奥平貞能の脱出は、武田軍に知れ、古宮城から追討軍が出陣したという。この時、奥平貞昌は、長櫃(ながびつ)から鉄砲50挺を取り出して撃ち、合図の火をあげたので、亀山城の奥平軍百余人も鉄砲を撃ち始めて、武田軍が怯んだ。この隙きに奥平貞昌は、亀山城を脱出し、父・奥平貞能と合流した。そして、武田軍と石堂ヶ根で合戦となった。この時、亀山城の奥平軍百余人が加わったことや、夜のことであるから、敵の位置が分からなかったり、同士討ちをしそうであったりしたので、武田軍は古宮城に戻り、奥平軍は無事、滝山城に入った。

 徳川軍が到着したのは、約束した翌日の午の刻(正午)であった。道が予想以上に険しかった上、山中で道に迷ったのだという。もし、約束の日に着いていたら、奥平貞能は誅殺されたであろうから、奥平貞能・貞昌父子は「運が良かった」としか言いようがない。

 助かった人もいれば、助からなかった人もいる。この奥平貞能・貞昌父子の逆心に怒った武田勝頼は、山県昌景に奥平氏の三人の人質、すなわち、仙千代(当時十三歳)、於フウ(当時十六歳)、虎之助(当時十六歳)の三人を公開処刑させた。

 於フウは、「奥平貞昌の妻である」と偽って人質になったと言うが、実際に奥平貞昌の妻であったとも、婚約者であったともされる。もし、於フウが生きていたら、奥平貞昌(後の長篠城主・奥平信昌)は、徳川家康の長女・亀姫と結婚できず、奥平家は衰退したかもしれない。というのも、亀姫は、母・築山御前に似てプライドが高く、奥平信昌が側室を設けることを禁じた女性であるから、自分が側室だの、後妻だのにはなりたくなかったろう。於フウが武田方に殺されることを計算の上での逆心であったとしたら、奥平貞能は策士である。

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