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鳥居強右衛門勝商(かつあき)

苗字がJRの駅名になった足軽。
どんな活躍をした人だろう?

■鳥居強右衛門勝商の基本データ

生誕 天文9年(1540年)
死没 天正3年(1575年)5月16日の夜(17日の朝?):享年36
主君 奥平貞昌(長篠城主)
戒名 智海常通居士(妻の戒名は寿姿妙全信女)
辞世 我が君の命に代わる玉の緒の何いとひけむ武士(もののふ)の道
関連地
生誕地:松永寺(愛知県豊川市市田町)
     ・「鳥居強右衛門生誕地」碑
     ・烈士鳥居強右衛門勝商公御木像安置所
     ・鳥居家累代の墓と鳥居夫妻(智海常道居士/寿姿妙全信女)の墓
     ・鳥居祭
顕彰碑:赤塚山公園(愛知県豊川市市田町東堤上)
アラモの碑:長篠城、岡崎城
・「鳥居強右衛門勝商上陸の地」碑(新城市川路天神)
・「のたば」狼煙場(雁峰山)
・「鈴木金七郎見晴台」(雁峰山)
・「涼み松」狼煙場(雁峰山)
・かるた看板「強右衛門のろしをあげし雁峰山」
処刑地:「鳥居強右衛門磔死之趾」碑 (愛知県新城市有海)
:新昌寺(愛知県新城市有海)、甘泉寺(愛知県新城市鴨ケ谷門前)

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■「鳥居強右衛門勝商顕彰碑」(現地案内板)
 天正3年(1575年)5月武田軍1万5千人の兵に囲まれ、落城間近の長篠城を救うため、鳥居強右衛門は、単身で敵の囲いを突破して豊川を下り岡崎の徳川家康の所へ援軍を乞うため走りました。そして、帰城寸前に武田軍に捕らえられ、「はりつけ」となり、36歳の若い生涯を閉じました。
 この石碑は、地元市田町に生まれた強右衛門の軍功を讃え、有志によって大正3年建立されたもので、毎年春には、「鳥居祭」が行われています。
 なお、松永寺には強右衛門の「はりつけの木像」がまつられています。

 なるほど。そういう人でしたか。

 ──単身で敵の囲いを突破し

これについては、
①鳥居強右衛門勝商単独説(「鳥居強右衛門勝商顕彰碑」)
②鈴木金七郎重政同行説
③鈴木金七郎重政「第二の使者」説
があり、現在は②鈴木重政同行説が有力です。梅雨の小雨が降る月明かりの無い夜、豊川を泳ぎ、雁峰山の「のたば」狼煙場で「脱出成功」の狼煙をあげることは、宝飯郡市田(三河国府付近)生まれの鳥居勝商では無理なので、長篠城主・奥平貞昌は、地元・設楽郡川上(新東名・長篠設楽原PA付近)の鈴木重政を付けたそうです。

■「もう1人の使者」(『広報ほのか』平成24年2月号)
 実は鳥居強右衛門の他にもう1人使者に立った人物がいたと伝えられています。その人物は鈴木金七郎です。彼は帰路に雁峯山でのろしを上げるところまで、鳥居強右衛門と同じ行動をしていました。ここでのろしを上げるまでが彼らに与えられた命令でした。その命令を果たした金七郎は厳重に囲まれた長篠城に再度入城することは不可能と考え、ここで強右衛門と別れます。金七郎はその後、奥平貞昌の子、松平忠明に仕えますが、やがて武士を辞め、作手に残ったといわれています。

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 ──岡崎の徳川家康の所へ援軍を乞うため走りました。

 雁峰山の「のたば」狼煙場から鳥居勝商と鈴木重政の2人は、岡崎城の徳川家康に面会すべく、雁峰山の北麓・田代に出て、千万町街道、道根往還と走り続けたといいます。
 さて、「長篠城の戦い」は「アラモ砦の戦い」に似ているとされ、岡崎城の旧大手門横に「アラモの碑」が立てられています。

 ──長篠城に「アラモの碑」があるのは分かるが、なぜ岡崎城に?

鳥居勝商と鈴木重政が徳川家康に会えるわけが無く、岡崎城に詰めていた奥平貞能(長篠城主・奥平貞昌の父)に面会を申し出たのですが、なかなか城に入れてもらえず、旧大手門(「アラモの碑」が立てられている場所)で待たされたという。(それで「アラモの碑」が!)
 その後、無事に織田信長と徳川家康に謁見し、奥平貞昌の主命を果たしたという。

 ──帰城寸前に武田軍に捕らえられ、「はりつけ」となり、

 徳川家康は、鳥居勝商と鈴木重政の2人に「一緒に長篠へ行こう」と言いましたが、「少しでも早く長篠へ戻って『援軍来る』と伝えたい」として戻り、「涼み松」で「援軍来る」の狼煙をあげました。
 ここで鈴木重政は岡崎城に戻りましたが、鳥居勝商は武田兵に変装して長篠城に戻ろうとしました。そして、鳥居勝商は、狼煙を見て「何かが起こる」とピリピリしていた武田兵につかまりました。武田兵は陣の周囲に砂を撒き、その砂に足跡が残っていたので「侵入者あり」と気づき、鳥居勝商の脛巾(はばき)が濡れて他の兵とは色が濃くなかったので、合言葉を聞いたところ、答えられなかったのでつかまったとされていますが、現在、この話は史実ではないと否定されています。

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※戦場では同士討ちもあったようです。それを避けるために身に合標(リボン)を付け、合言葉を決めていました。

 さて、捕らえられた鳥居勝商は、
「城内に向かって『援軍は来ない』と言え。そうすれば命を助け、武田家の家臣として召し抱えよう」
と言われて承知し、長篠城の対岸に行き、
「援軍はすぐそこまで来ているぞ。もう少しの辛抱だ」
と大声で叫びました。
 長篠城内では歓声が上がり、約束を破った鳥居勝商は磔にされました。

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 武田軍にいた落合佐平次は、鳥居勝商の姿に感動し、絶命直前に強右衛門に了解をもらい、鳥居勝商の姿を描いて旗指物にしたそうです。

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箱に「逆磔之図」とあることや、髪の毛が逆立っていることから、「逆磔ではないか」と考えられていた時期もありましたが、現在は否定されています。

■「磔図のこと」(『広報ほのか』平成24年2月号)
 鳥居強右衛門が磔となった時に描かれた絵が残されています。これは武田軍にいた落合佐平次が強右衛門の姿に感動し、絶命直前に強右衛門に了解をもらい、旗指物として描いたものです。
 近年、この絵は頭が下で足が上になるという「逆磔図」説が打ち出されました。現在、掛け軸になっているために本来の上下が分からなくなっていました。
 しかし、東京大学史料編纂所などの共同研究の中で、本物や古い写真などさまざまな磔図を確認し、従来どおり、頭が上で足が下という磔図が正しいということが再度確認されました。

 鳥居強右衛門勝商の墓は生誕地(愛知県豊川市市田町)の松永寺にありますが、処刑地付近の新昌寺(鳥居権現)や甘泉寺にもあります。

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 新昌寺の墓所は広い。「鳥居権現」として神格化している。石碑には辞世( 我が君の命に代わる玉の緒の何いとひけむ武士の道)が刻まれている。

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■鳥居強右衛門勝商の墓(現地案内板)
 甲州の騎馬軍団1万5千は武田勝頼を総大将として三河に進入し長篠城を包囲した。時に天正3(1575)年4月であった。この時長篠城内500の兵を率いて防戦したのは作手亀山城主奥平美作守貞能の嫡男貞昌(後の信昌)で時に21才であった。攻防20日余日、5月14日城中の食糧は尽きてきた。危急に際して援軍懇願の使者となって岡崎の家康のもとに走ったのが強右衛門である。彼は深夜敵の包囲網を破り豊川の急流を泳いで脱出し岡崎に至りその使命を果して帰城の途中篠場野で捕えられた。16日の夜磔柱の上で数本の槍に刺され壮絶な最後を遂げた。戦国乱世には味方を救うため自らを犠牲にしてその死にざまを大切にした。興亡流転の著しい争乱の世の武将の理想とする壮絶な死であった。時に強右衛門36才。豊川市市田出身である。因に妻は作手村市場の生まれである。辞世「我が君の命にかわる玉の緒を何に厭ひけん武士の道」

 鳥居強右衛門勝商の子・新商は、奥平忠明の家老になって作手に住んだ。墓が有海では遠くて墓参に不便だとして五輪塔と遺骸を新昌寺から甘泉寺に移したという。

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