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阿波『古事記』ゆかりの地の神社めぐり

 阿波説論者は相変わらず元気だ。

 阿波説論者の凄いところは、『古事記』を原本で読むということである。

 とはいえ、『古事記』の原本は現存せず、最も古い写本(国宝の名古屋真福寺本)で読むことになるが。

 阿波説論者の主張は、「現在の『古事記』の解釈は、江戸時代の国学者・本居宣長『古事記伝』の読み方と解説に基づくものであり、『古事記伝』を離れ、『古事記』を原本で読んで自分の頭で考えろ」というものである。「原本にあたり、自分の頭で考える」というのはよい心がけだと思う。
 原点回帰──阿波説論者の「『古事記』に帰れ!」という言葉は、私にはマルティン・ルターの「『聖書』に帰れ!」という言葉に聞こえた。

──さぁ、本居宣長と、時空を超えての対決の始まりです!

国宝・名古屋真福寺本『古事記』
本居宣長『古事記伝』

【原文(真福寺本)】天地初發之時於高天原成神名天之御中主神【訓高下天云阿麻下效此】次高御產巢日神次神產巢日神此三柱神者並獨神成坐而隱身也。
【書き下し文(本居宣長)】天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原(タカマノハラ)に成りませる神の名は、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)【訓高下天云阿麻下效此】、次に高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、次に神産巣日神(カミムスビノカミ)。この三柱の神は、みな独り神成りまして、み身を隠したまひき。
【書き下し文(Reco)】天地初めて発(お)こりし時、高天原(たかあまはら)【高の下(しも)「天」を訓(よ)み、「阿(あ)麻(ま)」と云ふ。下(しも)此(こ)れに効(なら)ふ】に成りし神の名は、天之御中主神(アマノミナカヌシノカミ)、次に高御産巣日神、次に神産巣日神。この三柱の神は、みな独り神と成りまして、隠身なり。
【現代語訳(Reco)】天と地が初めて分れた時、高天原(「高」の次の「天」は「てん」「あま」「あめ」と読めるが、「あま」と読む。以下同じ)に現れた神の名は天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神です。この三柱の神々(「造化三神」と総称する)は、(次から登場する夫婦神とは異なり)単独神で、お姿は見えませんでした。

①阿波説論者の解釈によれば、冒頭「天と地が分かれた時に、高天原に天之御中主神が現れた」の「高天原」と呼ばれる場所は、天にあるとも、地にあるとも書いてないが、読み進めていくと阿波であることが分かるという。
 普通は「神々が住む天と、人々が住む地に分かれた。天にある高天原(天の中でも最も高い部分)に、天之御中主神が現れた」と読むと思う。「天」が宇宙で「地」が地球なのか、「天」も「地」も地球にあるのかは不明。

②「高天原」の現在の読み方には、「たかまがはら」「たかまのはら」「たかあまはら」「たかあまのはら」「たかのあまはら」があり、どれが正しいかは不明である。【訓高下天云阿麻下效此】という注は、原本にもあるのか、写本の際に書き加えられたのか? 原本にあるのであれば、本居宣長の読み方は誤りであるが、原本が現存していないので不明である。

③最後の「隱身也」を本居信長が「みみをかくしたまひき」(御身を隠し給ひき)と読んだので、「(次から生まれて来る神々、特に高天原のリーダーになる天照大神に高天原を譲って)立ち退いた(隠居した)」と訳すのが普通であるが、そうであれば、「隱身也」ではなく、「隱身(みをかくしたり)」「隱身給(身を隱したまひき)」と書くであろう。
 阿波説論者は、最後の「隱身也」を「かみ(神)なり」と読む。とはいえ、「かみ」には、既に「神」という漢字が当てられており、ここだけ万葉仮名で「隱身」と書くのはおかしいと思う。
 私は「隱身也」を「隱身(かみ/かくしみ/かくれみ)なり」と読んで、「お姿が見えない存在である」と訳している。(「お姿が見えない存在である」であれば、「無御形」と書く気もするが。)

 江戸時代の国学者は、「神(かみ)」の語源を「上(かみ)」=「祖先の霊」としたが、「神」の「み」と「上」の「み」の発音は室町時代まで異なっていたことが判明した(現在の日本語は47音であるが、古代は80音)ので、現在の国語学者は、「神(かみ)」の語源を「隠身(かみ)」=「目に見えない存在」としている。

 ユダヤ教の神は、声はするが、姿は見えない存在「隠身」であり、日ユ同祖論者は、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の「造化三神」を「父、子、聖霊」だと考えた。

 『新約聖書』「ヨハネによる福音書」第1章第1部の冒頭に「アルケー(根源的原理)は、ロゴス(神の言葉)である」とある。

※『聖書』:『旧約聖書』と『新約聖書』がある。『旧約聖書』の原本はヘブライ語、『新約聖書』の原本は、当時の世界語であるギリシャ語(今で言えば英語)で書かれている。
 【原典】Εν αρχηι ην ο Λόγος(En arkhēi ēn ho logos、)
 【英訳】In the beginning was the Word.
 【邦訳】はじめに言葉ありき。

※『聖書』の天地創造(『旧約聖書』「創世記」(1章1-8節))
1 はじめに神は天と地とを創造された。
2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。
6 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。そのようになった。
7 神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。
8 神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。
(以下略)
 神の姿は見えないが、言葉(声)は聞こえる。そして、神が発した言葉に従って世界が形成されていく。(『呪術廻戦』の狗巻棘や、『異修羅』の世界詞のキアは神か? 姿は見えるけど。)「発した言葉通りになる」というのは、日本の「言霊信仰」に通じますね。

 ちなみに、阿波説論者は、「神」という漢字を「示+申」と分解し、「示し、申す存在」と解釈しているが、漢字(象形文字)「神」の字源は、「示」は「神に生贄を捧げる台の象形」であり、「申」は「かみなりの象形」である。(巨岩の前に台を置き、生贄を捧げて祈ると、巨岩に雷が落ちる(巨岩に神が宿る)様子を描いた字だという。)いずれにせよ「神」は中国人の考えで作られた文字であるので、日本人の考えは、「神」という文字ではなく、「か」「み」という音に表われているであろう。
 日本では、神は、巨岩「磐座」には、祭りの最中だけ宿るが、高木(ご神木)にはずっと宿っているという。高御産巣日神の別名は(高木に宿ることから)「高木神」で、「巣」とは、「住処にしている」「宿っている」という意味だという。外国では、「人は死ぬと星になる」というが、日本では(樹木葬ではないが)木になるようである。

 さて、マルティン・ルターの「『聖書』に帰れ!」という言葉に触発されて『聖書』に帰ったプロテスタントであるが、『聖書』の解釈が(カトリックが会議で統一見解を決めているのに対して)宗派によって異なり、たとえば、「『聖書』を正しく解釈すると、〇〇は食べてはいけないことが分かった」として〇〇を食べない宗派がある。ユダヤ教では、豚肉、タコ、イカなどは食べてはいけないが、キリスト教には食事制限はない。独自の『聖書』解釈により、独自の制限を課す宗派の中には独善的過ぎて「異端」と呼ばれている宗派がある。阿波説論者の皆様には「独善的解釈」「我田引水的補強」「異端者」と呼ばれないよう気を付けていただきながら、本居宣長を論破した『新訳古事記』(雑誌『ムー』のいうところの『四国古事記』)を確立していただきたいものです。

【個人的な意見】 『古事記』を読み、自分の頭で考え、本居宣長を論破していく過程(本居宣長への挑戦)の話は非常に面白いのですが、「『古事記』の神話世界は阿波にあった」と結論が出てしまって以降の話は、ちょっと上から目線になってるかな。
 今、面白いのは、実際に阿波へ行って、阿波説の検証をされている方々のお話かと。



 私が阿波説の検討に移れない理由は、既に、「少女H」の記事に書いた。
 私は、事実をもとに検証したいのですが、発表されている事柄のどこまでが事実なのか分からないので、まずは、発表されている事柄の検証が必要なのである。(阿波に住んでいる人は、一目で事実かどうか分かるのでしょうけど、私は、明らかな間違いしか分かりません。)
 たとえば、上の動画。「鹿屋野比売神を祀る神社は全国でここだけ」と言われると「阿波って凄い!」と思ってしまいますが、事実ではありません。
 たとえば、「萱津神社」(愛知県あま市上萱津)のご祭神も鹿屋野比売神で、境内には黄金の鹿屋野比売神像がたっています。そして、この萱津神社に関して興味深いのは、この神社がある場所が、歌枕の「阿波手杜(あわでのもり)」であることから、「阿波手乃社(あわでのやしろ)」と呼ばれていることです。「阿波」です!!!
※歌枕:和歌に詠まれる場所。たとえば、『新千載和歌集』の1548番歌は、
  かき絶えて人も梢の嘆きこそ果てはあはでの杜となりけれ(紫式部)
です。
 この「阿波手」の由来は、宮簀媛が日本武に会えなかったから、もしくは、藤姫が父親に会えなかったから「不遇(あわで)」であって、「阿波国とは関係ない」そうですが、詳しくは↓の記事で。


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