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司馬遼太郎『峠』


自宅警固の時は読書だな。

勉強不足の私には、「長岡藩」で思い浮かぶのは、
・「米百俵」の小林虎三郎
  https://kome100.or.jp/about/
・武田信玄の「為せば成る。為さねば成らぬ成る業を「成らぬ」と捨つる人のはかなき」がモチーフだという「成せばなる。成さねばならぬ。何事も成らぬは、人の成さぬ成りけり」の上杉鷹山
・「常在戦場」で有名な牧野氏の「参州牛久保之壁書」
くらいだな。

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<敵軍50,000人に、たった690人で挑んだ“最後のサムライ”>

「慶応3年(1867年)、大政奉還。260年余りに及んだ徳川幕府は終焉を迎え、諸藩は東軍と西軍に二分していく。慶応4年、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発した。越後の小藩、長岡藩の家老・河井継之助は、東軍・西軍いずれにも属さない、武装中立を目指す。戦うことが当たり前となっていた武士の時代、民の暮らしを守るために、戦争を避けようとしたのだ。だが、和平を願って臨んだ談判は決裂。継之助は徳川譜代の大名として義を貫き、西軍と砲火を交えるという決断を下す。妻を愛し、国を想い、戦の無い世を願った継之助の、最後の戦いが始まった……。」(公式)

慶応4年(1868年)7月24日、長岡藩兵は、八町沖(八丁沖)を渡り、長岡城を奪還する作戦を決行します。その時、河井継之助は、全藩士に対し、日本最初の言文一致の文章(口語体)という檄文(口上書)を配りました。司馬遼太郎『峠』(新潮文庫版下巻p.509)に、その一部が載せられています。(原文は、「最初から最後まで読んだ人(聞いた人)はいるのだろうか」と思うほどの長文です。学校集会の「校長先生のお話」がこんなに長かったら嫌だぞ。)

口上書
此の一戦(ひといくさ)は、第一、御家の興廃も、此の勝ち負けにありて、天下分け目も此の勝ち負けにありて、御家がなければ銘々の家も無きものゆへ、御一同共に身を捨て、数代の御高恩に報じ、牧野家の御英名を万世に輝かし、銘々の武名も後世に残すやう、精力を極めて、御奉公いたしませふ。
(中略)御一同共、必死を極めて勝ちませう。死ぬ気になつて致せば生きることも出来、疑もなく大功を樹(た)てられますが、もし死にたくない、危い目に逢ひたくないと云ふ心があらうなら、夫(それ)こそ生きることもできず、空敷(むなしく)汚名を後世まで残し、残念に存じますから、「身を捨てて浮かむ瀬もある」と申しますれば、能々覚悟を極めて、大功を立てませふ。
一昨夜より風も強く、此一戦を大切に思ひ、皆様と御一心に成りて、此の度は是非大勝をいたしたくと心に浮かみし丈、口上にて申し上げやうと書きましたが、届かぬ事であるけれ共、篤とお考え下されませふ。

松平広忠軍800人が、織田信秀軍8000人を破った時にしても、少数が大人数を破った時、不利であったも勝った時は「死を覚悟して退かずに攻めた時」です。部活の試合でも、強気で攻め続けた時は勝ってますが、ちょっと弱みを見せた時は、そこに付け込まれて大差で負けてます。(時にテニスとか、卓球の試合を見てると、選手はポーカーフェイスですが、TVで見ていても精神の波を感じますから、実際に対戦している相手には「旗色」が伝わることでしょう。)
というか、この「口上書」に似た言葉をどこかで聞いたことあるぞ!
あの戦国武将が、絶対不利のあの戦いの前に言った言葉に似ているぞ!

「英雄というのは、時と置きどころを天が誤ると、天災のような害をすることがあるらしい。」(司馬遼太郎『英雄児』)

https://www.youtube.com/watch?v=-RAGj6Xzh5s

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