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マッキム・ミード&ホワイト

(人物概要)
マッキム・ミード&ホワイトは、1879年にチャールズ・マッキム、ウィリアム・ミード、スタンフォード・ホワイトという三人の個性的建築家によってニューヨークで結成された設計事務所であり、1880年代から20世紀初頭にかけてのアメリカにおいて、イタリア・ルネサンスを範とする古典主義建築を数多く生み出しました。それらは、当時大発展の時期を迎えていたアメリカにおいて、建築美と秩序ある都市の姿の象徴となり、数においてのみならず、質においても、原型となったヨーロッパの様式建築を凌駕しました。彼らの作品は、今もアメリカの都市の象徴的存在であり続けています。

(イタリア・ルネサンス)イタリアにおけるルネサンスは14世紀の初め頃、後世まで大きな影響を与える思想家が誕生し始めたことで、徐々に開花したものです。イタリア・ルネサンス最大の功績は芸術分野であり、現代科学につながる基盤を作りました。

(本文)
マッキム・ミード&ホワイトは、事務所結成以後、最初は郊外における、シングルスタイルと呼ばれる、単純で力強い外観を備えた住宅を中心とした作品を創っていましたが、彼らを一躍有名にするのは、ニューヨークのヴィラード邸という集合住宅でした。これは、鉄道王一族を施主として、イタリア・ルネサンスのパラッツォを範として建てられたものです。通りに対して中庭型の前庭を設けて、ニューヨークで一般的なブラウンストーンを採用している点が、独特の表現を生んでいます。この成功により、同じくパラッツォ風のボストン公共図書館の依頼を得て、更には、より新古典主義的傾向が強い一連の作品、コロンビア大学のキャンパス計画とその中心に位置するロウ・ライブラリー、ブルックリン美術館、ニューヨークのペンシルベニア駅(現存せず)、ニューヨーク市庁舎高層棟などの大規模な作品群を生み出しました。最盛期には、100人を超える所員を抱えて、アメリカでもっとも有名な設計事務所となりました。また、この事務所で修行し、その後のアメリカを担った建築家も多く、まさに19世紀末のアメリカ建築を代表する存在でした。事務所自体は、1961年に創始者たちを直接知るスタッフがいなくなるまで存続しました。

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(シングルスタイル)
シングルスタイルは、ニュー・イングランドの建築校が登場して人気を集めたアメリカの建築様式。

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(パラッツォスタイル)
19世紀と20世紀の建築様式。イタリアルネッサンスの裕福な家庭が築いた宮殿(宮殿)に基づいています(つまり、直訳すると宮殿スタイル)。特定のデザインではなく、一般的な形状、割合、特性のクラスターを指し、 日付に関係なく、約200年にわたる建物に適用されています。

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(ブラウンストーン)
ブラウンストーンは正面に砂岩を施したレンガ造りのタウンハウス。
ブラウンストーンという名前は近郊のポートランドやコネチカット州で採掘された砂岩から来ています。

マッキム・ミード&ホワイトについて考える際には、19世紀末のアメリカの状況を念頭に置かなければなりません。南北戦争以降のアメリカは経済的発展を遂げると同時に、建築・都市の文化レベルを向上させようという機運が高まりました。その基本は、ヨーロッパの様式建築を本格的に学習し、アメリカに取り入れるということです。それまでも、アメリカの建築はヨーロッパの建築文化を学びつつ、独自の変形を行うというやり方で発展してきましたが、建築・都市全体をより美しく整備するという社会的動きの中で、この機運がより一層高まりました。ちなみに、当時ニューヨークは移民のスラムなどが数多く存在する、決して美しいとはいえない都市でした。

(南北戦争)
1861年から1865年にかけて 、北部のアメリカ合衆国と合衆国から分離した南部のアメリカ連合国の間で行われた内戦。
奴隷制存続を主張するミシシッピ州やフロリダ州など南部11州が合衆国を脱退してアメリカ連合国を結成し、合衆国にとどまったその他の北部23州との間で戦争となった。

19世紀半ば以降、アメリカの建築家たちは、こぞってパリのエコール・デ・ボザールへ留学して、建築を見聞するという修行を積むようになりました。その最初の人物リチャード・モリス・ハントは、1848年にパリに渡り、10年以上もヨーロッパに滞在していました。留学2人目のヘンリー・ホブソン・リチャードソンは、1860年に入学を認められました。2人とも19世紀後半のアメリカ建築において、主導的役割を果たしましたが、ここで興味深いのは、この先駆者の二人が、様式建築に対して異なったヴィジョンをもっていたことです。ハントは、様々な様式を、必要に応じて、直訳的に参照するという折衷主義的態度を身につけました。一方、リチャードソンは、ロマネスク様式の影響を受けつつも、個性的な作風を確立しました。マッキム・ミード&ホワイトの内、正式にエコール・デ・ボザールに留学したのは、チャールズ・マッキムのみですが、3人ともヨーロッパの建築を十分に見聞していました。彼らにとって、ハントとリチャードソンは両極的な、しかも極端な方向性をもった先輩たちでありました。ハントの直訳主義的な折衷主義に対しては、無節操に陥らぬための規範が必要と思われたであろうし、リチャードソンの個人主義に対しては、それを一般化するための方策が必要と感じられたでしょう。マッキム・ミード&ホワイトは、言うなれば、その中間に位置する、アカデミックな規範と適切な個性を備えた、第3の道を選んだといいえます。

(ロマネスク様式)
ロマネスク様式の建築は、半円形のアーチを特徴とする中世ヨーロッパの建築様式。
1000年から1200年頃までのゴシック建築以前の建築を指し、同時代のビザンティン建築と同じく、教会堂建築において最高の知識・技術・芸術が集約されている。

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エコール・デ・ボザールを徹底的に攻撃した近代建築家ル・コルビュジエですら、1930年代に初めてニューヨークを訪れた際に、マッキム・ミード&ホワイトに源を発するアメリカン・ルネサンスの建築を目の当たりにして、こう絶賛しました。「とにかく、私がイタリア・ルネサンスの評価を教えられたのは、ニューヨークにおいてである。それはもっともだと思うほど良くできている。それは、未知の新しい堅実さ、もはやイタリア的ではなく、アメリカ的な堅実さを持っている。大洋の風に運ばれてくる空気とアメリカ的冒険の可能性は、トスカナ的な優美さを新しい力強さに高めている。……真にアメリカ的な完成に達している」と。

ル・コルビュジェが批判したエコール・デ・ボザールは、様式建築の要素がとても強い。コルビュジェは様式にとらわれる頭の固いボザールの考えが気に食わなかったのだろう。しかし、マッキム・ミード&ホワイトの建築は様式建築を模したものが多いにも関わらず、ル・コルビュジェは絶賛している。マッキム・ミード&ホワイトについて調べることで、新しい価値観が生まれるかもしれません。是非、興味があれば調べてみてください!

~マッキム・ミード&ホワイトについて知りたい人におすすめの本~

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