或いはオカリナをたずさえて
幼い頃から偉人の伝記は科学者や芸術家のものを好んできた。
図書室にあったベートーヴェンの本。内容は言うまでもないが、彼が自宅にて作曲に励んでいる口絵(表紙の次あるいは本文の前に別丁で入れる絵)を何度も見つめていた。
殺風景と解説にはあるが、正面に彼の姿とピアノがあって、周りには楽譜や家財道具がごちゃごちゃとしていた。
余談だが、同じような殺風景な部屋で孤高に過ごしていた、敬愛するもう一人の人物こそ、綾波レイであるのは、個人的思想史としても案外無視できない事実。
ホームズはヴァイオリン随一の名器「ストラディバリウス」を普段から使っていた。それ故に、クラシック音楽を幼少から聞き始めたのも僕からすれば自然のなりゆき。
ちなみに、人物としてではなく、曲として一番好きな作曲家はバッハだったりする。
しかし、楽器を自ら扱うという事は、義務教育課程での「音楽」以外ではついぞ無かった。
しかし数年前、練習用のものではあるが、オカリナを買ってみた。
ここでオカリナを選んだのは、近いものとして「スナフキン」から影響を受けていた事は、既に書いている。
ほとんど吹くことは実は無いのだけれど、せっかくなので今回は拙いのを承知で二つの録音を載せたいと思う。
ありし日の自分や、幼子を見守る気持ちでお聞きいただければ幸いである。
YouTubeでは元来、Twitterで使用した動画などを保存しておく場として僕は使っていたので今回もその先例に則った。
普段はエッセイや小説を書いている僕だが、ほんの試みに時折、noteに落書きというべき代物を投稿することがある。
それはある種の芸術療法ではあるのだが、もう一方には、かつての文人よろしく、すべからく文芸に自ら触れておきたい・残したいという意志もあるのだ。
文人には上記のような、「琴棋書画」に親しむ教養人・数寄者としての在り方を示す他に、「文事をもって仕える人」という意味もある。
対義語は「武人」か。シビリアンコントロールを「文民統制」と訳すのはこの考えからである。
菅原道真は自らを「詩臣」と表現した。文章博士として、「侍宴詩」という形で。後には政治家としてもであったが、彼は己の教養をもってして、帝へ仕えんとした。
僕一人が拙い音色を奏でてなんとなるか。
だが、岸見一郎が『アドラー心理学入門』で“出来ることから始める”事について述べているのを読むまでもなく、発信している以上、何らかの影響はあるはずだ。
それは「バタフライエフェクト」すらも、引用する必要はない。程度の差こそあれ、少なくとも自身の中での印象は変わるに違いない。
今日この時この瞬間、オカリナが趣味としてより僕の中で存在感を増した。
これを受けて、つまり聴いていただいたか、読んでいただいたかして、少しは伝播するというのもまた、事実なのである。
スナフキンのように、旅先で誰ともしれず、「おさびし山」を想って弾くような事は無いかもしれない。
ホームズのように鋭敏な頭脳の休息などのために親しむこともまた、ないかもしれない。
だが、或いはオカリナをたずさえて――――――。
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