メンターなどというものは無い
昔はホームズであったり、偉人であったり、明確に理想とする人物が存在していた。その人自身になりたいと考えたり、真似をしたりして、趣味の世界を広げていったものである。
だが、現実を生き、更には知識の面でも様々な方向性を持ったことで、かつてのように一個の理想像などいまや存在せず、僕は僕でしかないことに気づかされる。
それは悪いことではないものの、ニーチェのいう大いなる正午のような感覚でもあるわけだ。つまり、いっさいの価値判断が消失し、何を選択するかは超人的な自己判断によってのみなされる。
それは、食のようなものだと思われる。
食べたものしか栄養にはできないし、それが些末なものであれば、心身もそれに比例することとなる。
もう既に、今の自分の趣味や価値観のルーツが明確に何に由来するのかなどこたえる事はできない。それを問うかたちで確認しつつ、深めていくしかできはしない。
だからこそ、僕はこうしてnoteにエッセイを載せたりもする。
あるいは僕の趣味の何かが、読み手の中では理想とする琴線にわずかでも触れるかもしれないからだ。メンターという師事型ではなく、強烈な自己のための自己学習型。
サブカルとかつて呼ばれた人々もある意味では後者よりだったのではないだろうか。別に何の確証も人脈もないけれど。
僕ははっきり言って、人並みもしくはそれ以上に見栄はりという側面がある。人よりもよく見られたいというのは、おそらくは生物としてごくごく普通の感情ではある。
だが、何をもって自己を肯定するかは、その理想像との距離に当然ゆだねられる。理想像が今の僕のように明確ではなく、趣味の世界だけがはっきりしている方が、肯定感はあるはずだ。
思い描いた通りに、その趣味に関わっている限り、もはや見栄は抱かずに済むのだから。理想を高くするのも良い、あえて低くすることで充足感を得るのも良い。僕の今の心境としては、理想を抽象化することのメリットと、ではこれからどこへ行くのか、について想いを馳せているだけなので、理想とのギャップによる不安などは無くて済んでいる。
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