De imitatione Ishizaka
今回のタイトルを訳すならば、翻訳機にかけてはならない。
直訳にしかならないから。「I am a cat.」を「私は猫です。」とするは直訳なり。翻訳では「吾輩は猫である」とこなければならない。
これと同じように、このタイトルの元は、中世の神学書『キリストに倣いて』のラテン語読み。
よって、僕のnoteの題名は「イシザカに倣いて」といったところだ。
イシザカ……とは他でもない。趣味人にとっては一人しかいるまい。
温和だが、真っ直ぐな柱を垣間見せる俳優。
金田一耕助を演じ、戦艦長門の軍旗を日本・呉へと買い戻した男。我らが石坂浩二さんだ。
博識として知られる石坂さんだが、特にプラモデルと絵画に造詣が深い。その知識については、新年に公開されたこの動画ではなぜかカットされているが、原動力や根本的なスタンスについては紹介されている。
動画は4分半なので、一度目を通してみるのもよろしいだろう。
僕は長らく金田一耕助を演じる俳優は、古谷一行さん派だった。
けれども、石坂さんの場合は「犬神家の一族」を新旧見比べることで、その味わい深さを感じる至った。
世代的にも、ドラマ版「白い巨塔」の東教授は石坂さんのイメージであるし、今まさに放送中の「相棒」にも、特命係直属の上司として登場し続けている。なので、むしろ僕にとっては高級官僚的な人物描写が多い。
それはそれとして、石坂さんの言う、まずモノから出会い、それを通して人にも出会うという流れは非常に共感する。
友だち“作り”が当たり前な人にとっては、趣味は単なるツールでしかない。キャラ付けだ。オタクも一般化した要因のひとつにはこれがあると分析されてもいる。
確かに、高校までの環境などでは、いわゆるゲマインシャフト(地縁、血縁、友情などにより自然発生した社会集団)なので、ツールとして利用するのは有効だろう。
だが、それ以降のゲゼルシャフト(機能体組織)においては、趣味に没頭しつつ、それを社会に投じれば、“作ろう”とあえてせずにも類似的に発生するもの。
またそれは横の繋がりだけでなく、私淑的に縦の繋がりも生じ得る。僕の場合は、石坂さん。
僕はかつて一度も趣味が無かったことがない。なので、趣味の無い人々の過ごし方は正直、想像できない。
また一方で、趣味があって凄いですね、と言われるのも嬉しくはない。それくらいに当たり前にあるものだから。
趣味は誰しもが持ち合わせているなかで、より教養・造詣が深く、あるいはより自分なりに所有している者のことを、趣味人・文化人と言うのだから、単にコレクターであってもそうはなれないし、また趣味があるからといって趣味人と名乗れるのかは怪しい。
そのようなストイックな抽象概念の上で、趣味人たらしめるのは、その経験と語りなのではないだろうか。石坂さんはそれを「中心は人」と表現したとも思える。
以上、「好奇心野郎」の一人として考えた趣味の効能についてでした。
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