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ヤンデレに至る病とその将来性

はじめに

ヤンデレという語が、「病み/病んでる」と「デレ」の合成語であり、それ故に、病的なまでに意中のキャラを愛している存在を意味することはよく知られるところである。

病的であることを表すのに用いられるのは、往々にしてその暴力性もしくは過度な嫉妬であり、視覚的には血が滴る包丁を持って、見開いた眼にはハイライトが消えているように描かれることが多い。

さて、私は以前、ストーカーとメンヘラとの違いを『<ヤンデレ>という文化資本』において検討してみたが、今回は、ヤンデレが「病的」と感じられる嫉妬について触れることで、微力ながら、ヤンデレという存在の輪郭を縁取りたいと思う。

カクヨムに投稿した上記の評論の要約スライド(読み上げ音声付)

ヤンデレに至る道

「メンヘラ」という言葉が一般化したことによって、ある種の類似的イメージを有する「ヤンデレ」は元からマイナー市場であったこともあって、曖昧なものとなってしまった。
まさしくプラトン哲学における「イデア」のように、私たちはヤンデレという存在を認識しているものの、現実に現れる・コンテンツ化しているものは、必ずしも完全ではなく、様々な「ヤンデレ的」作品を通して、またメンヘラとの比較を通して、私たちはヤンデレコンテンツを享受する。

また、度重なり恐縮だが、一般に言われているヤンデレとメンヘラの差異は既に先に論評しているのだが、ここで付け加えるならば、メンヘラは一個人で成立するが、ヤンデレは意中の存在があって初めて発露するという後天性のある在り方であると言える。
したがって、相手との関係性において「発症」してゆくものと考えられるわけだ。

さて、ヤンデレを発症する大きな要因として「嫉妬」がまず考えられる。

嫉妬は、愛情を失うことを予期することからくる懸念や怖れ、不安というネガティブな思考のみならず、怒りや恨み、あるいは自分とは釣り合わないという感覚、そして無力感や嫌悪感などといった感情が複雑に作用しているとされる。
私がここで無力感を強調したのは、ヤンデレには当てはまらないように思われるからだ。しかし、それを実行してみせるのは、一般的な嫉妬の範疇を越した(病的な)愛情ゆえである。

主としてカトリック教会には、「七つの大罪/七つの死に至る罪/七つの罪源」という考え方がある。
その中のひとつに嫉妬がある訳だが、注目したいのは、ここでいう嫉妬はラテン語での「invidia」、英語でいう「envy」であり、これは「羨望」とも訳される。

神学的には包括しているかもしれないが、心理学的に言って「嫉妬」と「羨望」は異なる。またそれを更に拡大解釈し、弱者が強者に対して、憤り・怨恨・憎悪・非難の感情を持つことも検討するならば、それはニーチェ哲学などにおける「ルサンチマン」であるともいえる。

ヤンデレにおける嫉妬をあえて狭めるつもりはないが、メンヘラとヤンデレの差以上に、嫉妬にまつわる心理的・現状的事象は曖昧なものであることが分かる。
そしてそれらに共通するのは、信仰あるいは倫理観のうえで、否定的に捉えられる点である。

オセロ症候群

病的嫉妬(Pathological jealousy)というものがあるが、これはある人が、他から見たら異様なほどの嫉妬感情に支配されていることを意味している用語だ。

嫉妬の定義を困難にする要因に、それが愛情に対するものか、あるいは名誉などに対するものかという大きく分けて二つの嫉妬があるからだが、病的嫉妬に類する、「オセロ症候群」は前者、つまりは愛情に対する嫉妬である。

イギリスを代表する劇作家ウィリアム・シェイクスピアの四大悲劇の一つ『オセロ』で、妻に激しい嫉妬の念を抱く主人公の名前から、同じくイギリスの精神科医ジョン・トッドにより名付けられたこの症候群は、「パートナーから裏切られるのではないか」「相手を失うのではないか」などといった恐怖心から根拠のない嫉妬妄想が抑えられなくなる症状のことを表している。

そのため、パートナーに「嫉妬する」だけでなく、プライバシーに関してもチェックし、また束縛するというような行動が確認される。
この点はヤンデレコンテンツにおける常套手段であり、非常に類似した状態にあると考えられる。
ストーカーとの違いを改めて考えるならば、ストーカーはクレランボー症候群などによる「被愛妄想」なのに対して、このオセロ症候群は逆の妄想による心理に至っているのである。
そのため、先述したように、一般的な嫉妬には無気力なども含まれているのに対して、ヤンデレの暴力性がこれに干渉しないのは、換言すれば病的に映るのは、このオセロ症候群的な状態にあるからだ。

個人的推察

筆者である私の具体的年齢は公開していないものの若者ではある。それを前提に、身の回りの事例から考察してみたいのだが、昨今では、若者は「Twitter」ではなく専ら「Instagram」を利用していると耳にする。また日々の連絡においてもメールから「LINE」へと移り、今ではこの「Instagram」でのダイレクトメッセージ(DM)を使用していることがほとんどとのこと。
そしてまた、位置情報を公開し合うアプリも併用されているため、今現在「友だち」がどこに居るのかが明白である。

私はそのような利用を行っていないので、実利的にもまた心理的にも理解しがたい部分があるものの、若者の中での人間関係性が、文字から視覚へと移っているのではないかと仮説をたてた。

すなわち、相手の気持ちを知るというツールにおいて、「Twitter」は有用であったが、それが「映える」写真等によるある種の勘合貿易的なものとなり、一見して相手がどのようなことをし、またどのようなものを好きなのかが分かるのを良しとするようになった。
またそれは共同体という意味での相互監視的役割として、つまり「位置を知らせても問題がない」という理念によって、友だち付き合いがなされるようになった。
つまり、相手は何を考えているか分からないからこそ、同じ「儀礼/慣習」の中において、関係性の存続自体を再認識できるシステムを構築していったわけだ。

一方でそれをより精鋭化したのが、オセロ症候群によるヤンデレの「監禁」なのではなかろうか。
私は以前、あえて極論的に『ヤンデレが導く評価経済社会』と題して、ヤンデレ的な信用構築・信頼関係を考察してみたことがあるが、あながち笑い話ではないのかもしれない。
もちろん飛躍的ではあるものの、ヤンデレそのものが日々変化しているのだから、どうしても避けられない部分は少なからずある。
うがった見方をすれば、神の法を説かなければ、私たち人間は嫉妬をコントロールできない。ましてや近代の合理主義の影響を色濃く受けた私たちは、かえって病的嫉妬など、メンタルヘルスの問題と向き合うことが強いられてもいる。
「ニート」や「おたく」という語が一般化、そして大衆化したように、メンヘラも「ファッション化」しつつある。メンヘラは主として現実の対象に用いられる言葉であったがために、ヤンデレよりも先んじて一般化したと仮定するならば、暴力性のデフォルメがなされたとき、ヤンデレの持つ「病的」という感覚が変容していくと私は考える。

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