武重謙 ヒグマ猟記2「獲物を喜ぶ後ろめたさ」前編
狩猟は仕事か、生活の一環か、スポーツか……。そんな論争を見かけることがある。
そんなものは人によるし、私に言わせれば、他人のやっていることをそうやって型にはめようとするのはくだらないと思っている。しかし、悲しいかな私は物事を考えすぎるタイプで(そうでなければ、こうやって文章を書いていないだろうと思う)、ご多分に漏れず、自分の行為について考えてみることがある。
私は狩猟から金銭は得ていない(駆除の報奨金として受けとるお金はあるが、それは本当にわずかで、それを持って収入と呼べるほどではない)。しかし間接的な収入として、自分の狩猟体験をこうして文章にしたためて、原稿料やら印税やら広告料やらの収入を得ているのは事実だ。それだけで生計を立てるほどではないが、馬鹿にならない額にはなる。
獲った獲物は基本的に自分と家族と、一部の友人らで分け合って食べる。自宅には150リットルほどの冷凍庫を持ち、冬に獲った獲物を夏に食べたりもする。我が家の食肉自給率をわずかに押し上げている。
この論理を盾に、自分のやっている狩猟を「生活の一部であり、副業的なものでもある」と位置付けたいのだが、これを邪魔するのが「イノシシに過剰に喜ぶ感情」だった。
本当に生活の一部であり、獲った肉が生活を支えているとすれば、シカを見送ったりせず、獲れる獲物は獲ればいい。実際、シカ肉は家族全員に好評だったので、そうしない理由はなかったのだ。
しかし、目の前で棒立ちしているシカを見送り、わざわざ見つけるのが難しいイノシシを探し、結果としてボウズを繰り返すのは、やはりスポーツ的だと言われても仕方がないだろう。
言うまでもなく、スポーツだからといって悪いことなどない。法で認められた権利だ。ただ自分がやっていることは生活の一部である、という感情と、難しい獲物ほどおもしろくて、そのおもしろさを追究しているという感情が、うまく混ざらず、渦を巻いていた。
この2年目の猟期を終えて、仕事と家族の都合で、関東から北海道に移住することとなった。
移住後、エゾシカを獲りながら、ヒグマに興味を持った。イノシシに感じたおもしろさを重ね合わせていたし、すぐに獲れるエゾシカに対して、早くも慣れの感情が湧き、物足りなさも感じていた。
狩猟を通じて、心に決めていることが1つある。それは矛盾した感覚や整理が付かない感情を無理して整理しないことだ。矛盾は矛盾のまま、整理が付かないものは散らかったままにしておけばいい。それでも前に進むしかない。
どうしてヒグマを獲りたいのだろう?
わからないけど、獲りたい。理由なんてそのうちわかるはずだ。
そう思いながらヒグマ猟を始めることにした。
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