『ゴジラxコング 新たなる帝国』ゴジラ好きが見た感想
こんにちは、ゴジラ作品が結構好きなしゅおと申します。
全部を見ているわけではありませんが、初代、リメイク、平成ゴジラシリーズ、最近のゴジラ関連は見たことがあります。
そんなまあゴジラ好きを名乗ってもいいだろうと思っている私が感じる
ゴジラの本質というか魅力は、
ゴジラは災害です。神と言っても良いです。
基本的に人類では成す術がなく、なんとか排除しようとしても完全に人類の思い通りの結末にはならない。そんなものに出会った時、人類はどうするのか。人類ファーストの利己的な欲でもなく、恐怖への防衛本能による暴力でもなく、怪獣たちと真摯に向き合う者が何かを成します。
その者たちの取る行動が怪獣と戦うことだったとしても、そこには自然と未知なる他者へのリスペクトがあります。
それが美しい。
ハリウッド版ゴジラは、個人的には二作目まではおもしろかったです。
一作目はまさに私の思うゴジラそのものでした。人類サイドは自分でオンにした核爆弾に振り回されているだけ。怪獣たちに何もできていません。まあ少しばかり脅威を未然に防いだりはしましたが。(エメリッヒ版ゴジラへのオマージュですかね?)
コングが入ってきてから、ハリウッド謹製のコングを活躍させたいけどゴジラさんも立てなくてはいけない、みたいな昭和の怪獣プロレスの波動を感じて結局ゴジラxコングは劇場では見ませんでした。
前置きが長くなりました。
ここからが、ゴジラxコングをアマプラで見た感想となります。
一言でいうと、
もう完全に最近のハリウッド映画だな。でもこの映画のテーマの根源的部分を作った人の感覚結構わかるかも。
という感じです。
とりあえずハリウッド映画ポイントとしては、
・ノリのいい曲がかかりながらお仕事をする獣医さん
こういう「手際よく仕事をしてます!」みたいなのを見せるときに、BGMどころじゃなく音楽を主体にするのがすごいハリウッドっぽい。
そのまま見せてもインパクトが足りないってのは分かるけどね。じゃあ別に人間が仕事している姿いらなくね?コングの歯の治療とかプロット上重要じゃないじゃん、とも思うけど、人類の活躍映したいんだものね…じゃあしょうがないね。
・金属ががしゃがしゃするコングのパワードアーム
アイアンマンかトランスフォーマーで見たことあるな~
凍傷用の注射も入ってます、自動で装着します、なんてご都合主義的で展開が無理やりすぎる…でも人類の科学の結晶をコングに役立ててもらうことで人類の活躍を映したいんだからしょうがないね。
・前傾姿勢でワニみたいなゴジラと表情で会話するコング
これは、欧米だと表情で意志を表現するのが一般的だから、ある程度表情を重視するのはわかる。
だがゴジラが吠えるときにこれ見よがしに両手を広げているのはちょっと…「はい!今威圧してますよ~」ってそんなにやらないとダメ?誰にでも分かりやすくするためのアクターとかアニメーターのグローバルスタンダードな手法ではあるけど、やり過ぎは情緒を欠く、と個人的には思った。
コングの表情にしても、「絶対にこれ以外の捉え方をされないように!」みたいなクドいくらい分かりやすくしようとする意志を感じる。そんなことしなくてもその後のミニコングの行動とかでコングの意図は分かるのだから「彼らの間ではなぜか意思疎通出来てるんです不思議ですよね」とした方が神秘的で面白いと思うんだが…
これは私の感覚だが、最新ハリウッド版一作目のゴジラは多少ゴリラの要素が入っていたと思う。
だがコングを出したことで差別化のため今作のゴジラは完全にワニになってしまった。なんかアメリカってワニとサメの映画多くない?好きなのかな?(それとも俺の目に入るのが偏ってるだけかな?)
あとゴジラが北極海ですぐそばにいる原水(だよね?)を襲わないのにも違和感があった。放射性物質があればつまんでいくのがゴジラのはずだ。悪役でもない人類サイドを攻撃させないところにゴジラさんへの忖度を感じる。
それは言い換えれば、「ゴジラすらも人間様の理屈で理解できない存在ではない!」という人類のエゴでもある。
「人類が地球の支配者だと思い上がっていた~」というセリフは今作に限らず最近のハリウッド映画に散見されるが、展開としては未だに徹底した勧善懲悪の二項対立構造であったり人類の科学力や技術を見せたがったりと、思い上がりは現在進行形だ。
同じ人類の活躍でもそろそろ理屈よりも理性を、技術よりも精神性をフィーチャーしてほしいものだ。
ということでなんだかこき下ろしてしまったようにも見えるが、
私は今作を、語る価値もない駄作と思わない。
それはあるセリフがあったからだ。
「レムリア大陸より前の文明だ!」 (そんなニュアンス)
バーニーが地下空洞内のイーウィス族の遺跡を見たときのセリフだ。
レムリア大陸はムー大陸のことで、スピリチュアルや都市伝説の世界ではレムリア大陸は本当に一万二千年ほど前に存在していたという説がある。そしてレムリア大陸は海に沈んで滅亡したが、レムリア人たちは地下で復活の準備をしているとも言われている。日本も沈んだレムリア大陸の一部だったとか。
バーニーはそういうネタが好きそうなキャラではあるが、ただのキャラ付けのためのスパイスにしては、レムリアの要素が各所にちりばめられ過ぎている。
例えばレムリア人は水晶や水の力を使っていたし、それでもって腕力以上のものを動かすことができた。一説には音の振動を利用したものとも言われるが、今作では重力を操っていることになっている。
エジプトのピラミッドもそうやって建てられたという説がある。ピラミッドは高次元や超古代文明では重要な意味を持つとされているので、今作でエジプトのピラミッドが登場したのも、上下の水晶のピラミッドの頂点がくっつくのも何か意味があったと思う(忘れたが)
またレムリア人はテレパシーを使えた。そして自然を信仰し、自然や鉱物やあらゆる生命と調和して、森羅万象を愛して生きていた。
私は個人的にはレムリアはあったと思うし、なんなら過去世でそこにいたようにも思う。彼らの愛の生き方にあまりにも惹かれすぎるし、再会を約束して沈んでいったレムリア人たちと「また会えたね」と言えることが何よりの望みだったようにも思うからだ。
まあ興味のある人は調べてみてください。
ともかく私は、そのセリフに心底驚いた。
あれ、それってもう言っても良いことになったの?言っていこうって段階になったの?と。
これまでスピリチュアルの世界でしか言われていない、大衆には眉唾と思われていたもの、それをハリウッドの映画でサラッと登場させてしまっていたからだ。
レムリアの要素をただの題材として使っているのか、意図して入れているのかは分からないが、少なくとも今作が公開されるまでにストップがかからなかったことを好意的に感じた。
そして仮に意図して入れているのだとすると、考察が加速する。
イーウィス族の様々な描写はこの映画のプロットを作った人の本当に描きたいこととなるのだ。
そういう視点で見れば、
イーウィスの信仰の対象はモスラであり、時点で助けを呼ぶゴジラ、最後についでにサル、ということになる。
作中ではアイリーンの説明増し増しセリフの中で、サルがイーウィス族を守っていたと言われているが、地下のイーウィス族からするとモスラ>ゴジラ≧サルくらいの信仰度ではないだろうか。
この映画に携わった大多数はコングを活躍させたいと思っていただろうが、イーウィス族とレムリアのテーマを盛り込んだ人からすれば、サルはついでということだ。
ちなみにモスラの復活は、個人的には卵から生まれないのがとっても残念だった。
だが尺の都合上、また演出の見栄え上、それは仕方がなかったのだろう。
モスラの生態からするとモスラは死ぬ前に卵を産んで、子に親の記憶が引き継がれるというのが東宝版の設定だが、モスラのモチーフの一つである不死鳥として考えた時、不死鳥は生き返るときに卵までは戻らずにヒナとしてよみがえるので、一応今作のモスラはそちらを踏襲したとも言える。
最後にストーリーの構成を読解して終わりにしようと思う。
・悪役としての支配者たち
まず、今作の悪役はスカーキングとミケル(木に食われた老人)である。
ミケルに関しては、自然信仰を描くうえで食物連鎖を表現しようと、それまで素振りもなかったのに急に前時代的なセリフを喚き散らすことになった可哀そうな展開の犠牲者だ。
観客が後味が悪くないように犠牲者は悪役である必要がある、という勧善懲悪の二項対立的な構図に当てはめたがる人類のエゴが彼をひどい人間にしてしまった。
自然信仰、アミニズム的な価値観は個人的には好きだが、自然信仰の解を食物連鎖とするのは短絡的である。
結果的に食物連鎖は起こるかもしれないが、自然信仰の大事なところは意識の部分だ。自然信仰が作者の主張なら、あまりにも言葉足らずで誤解が生まれる表現だ。もしくは食物連鎖に参入しろ、原始に帰れというのが作者の主張、またはこういう世界観ですよ、という説明なのなら、科学技術をフィーチャーしている描写との一貫性がなかったり、捕食者(怪獣)が跋扈する世界で呑気に海水浴に集うような世界観と共存しないので、いびつである。
そう、自然信仰を描きたいのであれば今作はいびつなのだ。
では自然信仰に大した意味がなかった場合はどうだろう?
その場合、この展開を作った人は、”俺に従え”野郎にただただ酷い目に合ってほしかったということになる。他者を従えようとする者、つまり支配者を心底憎んでいたことになるのだ。
後述するもう一つの悪役のことも鑑みると、支配者への批判という見方が最も筋が通るように思う。
もう一つの悪役、スカーキングは特に見栄えもしないただのサルだ。
今作はクドいほどに分かりやすい、ディズニーアニメのようなモーションを採用しているので、こいつが憎たらしいやつだと表現したいことはすぐにわかる。
ゴジラが倒せなかったという触れ込みの癖にただのパッとしないサルだ。
だからゴジラが苦戦するようにわざわざぽっと出の氷河期怪獣を新たに作らなければならなかった。
だったらもっと強大な強そうな悪役一体でいいじゃん!
でもそうしないのはなぜか?
それは他を支配するような憎たらしいやつを出して、そいつをゴジラとコングに懲らしめてもらいたかったからだ。
強大な悪役ではそいつが魅力的になり過ぎてしまうから駄目だったのだ!
最近のハリウッド映画には帝国とかキングダムとかつく副題が多いように思う。どちらも支配者がいてその下に手下がいる組織だ。今作のスカーキングの組織は猿の惑星キングダムととても描き方が似ていた。
どこか支配者、ひいては徒党を組む組織に対しての憎しみと恐怖と憧憬の入り混じった感情を感じた。
それはアイリーン(主役のお母さん)とジア(主役の女の子)の作中テーマだった、居場所(ホーム)がない、居場所を探すという点と繋がっている。
今作では帰属する集団がないことがジアとコングの両面で描かれている。
猿の惑星キングダムでは支配者のいる集団に対比されるのが支配者のいない集団(村的な主人公サイドの集団)であり、まあ絆と言えば綺麗かもしれないが少々ベタベタしい近さにも感じて集団賛美が少し気持ち悪かったのだが、今作においては最終的にジアはアイリーンと生きることを選んだ。
居心地のいい集団ではなく外に出たジアに対して、コングは自分の帰属すべき集団に収まった。
集団賛美になり過ぎず、かといって孤独なままというわけでもない、それをジアとコングの異なる結末で表現したのは良いオチの付け方だと感じた。
総括すると、
大衆向け映画のエゴ(人類を活躍させたがる)と限界(分かりやすさ優先すぎる)はあるものの、
イーウィスの描写とオチの付け方にはある程度満足した映画であった。