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Nowhere man

物静かな少年だった私は、その頃、家族で車に乗っていると(私はいつも後ろの、左側の席だった)、助手席に座っている母親から「静かだからまるでそこにいないように感じる」って冗談で言われてました。多分その頃の面影って残っていて、自分は1人で静かにじっとしているのが好きなんですけど、本当にその瞬間、自分はどこにもいないんじゃないかということになるのではないかと、ふと気づきまして。さっき。

と言うのもデカルトの残した「我思う、故に我あり」って言うの、思考することで、その人が存在していることを証明するって言う意味だって知りまして。

批判的に物事を受け入れる

素直になんでもかんでも受け入れない

素直になんでもかんでも受け入れる人は、思考していないってこと?

本当にそこにいるはずなのに、思考していないから、存在を証明することができない

本当は「素直に受け入れよう」と思考しているでしょ

思考するだけじゃなくて、声を上げることで、自分の思考を外に出すことができる

あの頃、私は「そこにいないように感じる」と言われていたけど、本当は何かしら考えていたはずで、けどそれを外に発することがなかったから、存在を証明することができなかった

のだと。

関係ないですけど仕事の話で、会議中に一度も発言しない人ってその会議に参加する必要がない、って言われることがあるじゃないですか。それはまぁそれに対して賛成なんですが、私も上記のように物静かな方なので、会議で発言しない場合もまぁ多々あるんですよね。
けど本当はずーっと思考していて、議題を整理したり問題を噛み砕いたりしてるんですが、それを発する機会がないから、そのまま会議が終わっちゃったりするんですよね。

もしかしたら、会議に参加する必要がない、って大げさな言い方なのかもしれないですが方向性としてはデカルトの考えたことと一緒で、

いやー、違うか

デカルトは、思考することで存在を証明する、って話なんだから、会議で一度も発言しなかったとしても、思考しているわけだから、

うーん、

多分、思考することと発言することはイコールではないんだけど、そこをきちんと捉えていない自分が誤解したんだろうなこのくだり。忘れよう。

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