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第14回 鳥羽天皇暗殺未遂事件と立川流

天永4(7月に永久と改元:1113)年正月1日、11歳になった鳥羽天皇の元服式が行われました。
摂政・太政大臣である忠平(36歳)は娘の勲子(いさこ:19歳)の入内を奏請されるかと期待していました。しかし白河法皇(61歳)からの命令はありませんでした。忠実は思いました。
「あの時の意趣返しだろうか」
5年前、白河法皇から勲子を入内させぬかという話があったのを夫婦共に警戒して辞退しました。6歳の鳥羽天皇に入内というのはいかにも不自然で法皇の危険な意図が見える気がしたからです。

そしてそのまま月日が流れたその年の10月、大変な事件が起こりました。
令子内親王(法皇の皇女)の御殿に落書があって、「醍醐寺の千手丸という童をそそのかして帝を暗殺しようとする者あり」というものです。
すぐに千手丸は捕えられ、激しい拷問の末に「輔仁親王様の護持僧仁寛(にんかん)様の命令によるものです」と言いました。仁寛(生年不明)とは左大臣源俊房(79歳)の息子です。英明な輔仁親王(41歳)の護持僧として仕えていたのです。仁寛もすぐ捕えられ、また激しい拷問の末に暗殺計画を自白しました。
仁寛は伊豆大仁(おおひと:現在の伊豆の国市)に流されました。
この暗殺計画事件は真実だったのか冤罪なのか今も分かりません。ただ一つ言えるのは、これで輔仁親王の即位の目は完全に無くなったという事です。
白河法皇の父・後三条上皇の遺勅で「東宮実仁の次は輔仁を立てよ」というのがありました。
実仁親王は15歳で亡くなりましたが、白河法皇は違勅を無視して我が子堀河天皇を立てたのです。輔仁親王の英明を惜しむ声は多かったのですが、これでそれも無くなったと言えましょう。そして嘆く左大臣源俊房の系統はこれで消えていき、弟の亡き顕房の系統が村上源氏として栄えていくのでした。

伊豆に流された仁寛は自らの真言宗を広める事に努力していましたが、そこへ立川から見連(けんれん:兼蓮とも)という陰陽師が来て、そして何人かの弟子に密教を伝えます。
しかし仁寛は翌年の3月、伊豆の城山(じょうやま)の頂から身を投げて自殺してしまいました。
そして残された見蓮を中心に「立川流」という密教を完成させていきます。それは西蔵(チベット)の性愛も加味した呪いの宗教へと発展していきます。

これに注目したのが鎌倉後期から南北朝期の後醍醐天皇でした。当時皇統は二分三分され、天皇には敵が多かったのです。相手を呪い殺す、そして性愛を尊重するというのは後醍醐天皇にとってぴったりのものでした。(30数名の皇子女がいます)ライバルだった兄の天皇が24歳、甥の皇太子が27歳で若死にしているのも何か関係があるでしょうか?

しかし立川流は、頭蓋骨に体液をかけて祈るなどだんだん邪教化し、江戸中期には弾圧され、絶滅してしまったと言われています。(続く)

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