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『労う』ということ。


                  4,333字

地域密着型の接骨院「よりみち接骨院」で、癒し系イケメンのコータ先生に、独特の施術をうける。私の身体の両肩からは、マグカップと箸置き、首から蝶が羽化し、両耳からは大量の錠剤がこぼれ落ちた。不思議なその治療の効果とは。

「捕らわれは置いて、思い出はキレイに」



雨は本降りになっていた。
明かりのついた窓、誰かのいる家に帰るのはあたたかい。

「ただいまー。」
「おかえりー。遅かったね。」
「あ、接骨院行ってきたからさ。」
「ふーん。ねぇ、お腹すいた。」
「そうだよね、すぐ作るね。」

奥の寝室にリュックをドサッと置いて、手洗いを済ませ、いそいそと冷蔵庫を開ける。

焼くだけの味付け鶏モモ肉がチルド室にあるのを見つけ、フライパンを熱し、中火でジリジリと焼きはじめる。フライパンは家族で近くのショッピングモールの初売りで、お正月に買ったもの。テフロン加工がスルスルと効いて、卵焼きもチャーハンも、まるで自分が料理上手になったみたいにいい気になれるほどで、モモ肉だって片手でクルンと裏返したり出来た。

タンタン タンタン
とまな板に、レタス、キューリ、トマトを次々と切り、お味噌汁用にも長ネギとナスを切っていく。
「シンプルが一番美味しかったりするんだよ」という信念のもと、無心に動く。

娘の高校の、ゴールデンウィークに出された家庭科の宿題は、
「30秒以内にキューリの半月切りを30枚以上(2mm以下、繋がったり欠けたりしておら          ず、半円であること)」
というもので、休み明けにテストがあるのだとか。包丁を持つことはあるものの、全然慣れていない娘は、30秒で19枚が限界だった。
「貸してみ」
と、お手本に私がタンタンタンタンと切って見せると、30秒で60枚近くで、
「ママすっご!なんで!?」
とか言うものだから
「こう見えて主婦歴20年はありますから」
と、自分でもびっくりしながら言った。

その日の夕飯には「タコとキューリの酢の物」が鉢にどっさりと出来上がったけれど、酢の物好きな娘たちは、ペロリとたいらげた。

夫が帰ってくるのはたいていいつも、もう少し遅く、育ち盛りで腹ぺこな娘たちと私とで、先に夕飯をはじめるのが我が家のスタイルだ。
ちょうど食べ終わるころ(テンテレレン テレ テレレレ…「オフロガワキマシタ」とモニターも伝えるころ)、夫は、
「ただいまー」
と帰宅する。私はそこから夫用のモモ肉を焼きはじめ、副菜を温め直し、野菜を切り足したりして整える。彼が席につくころには、冷えていた缶ビールをプシュッと開け、彼が傾けるグラスに注ぐ。7:3、黄金比。

「はい、おつかれさーん」
「おつかれさま」

あらかた食べおわっている私も、少しだけ晩酌に付き合いながら、娘たちがお風呂を済ませるのを待っている。風呂場からは、二人が気持ちよく歌う声がエコーまでかかって聴こえてくる。

「あ、そういえば今日ね、接骨院いってきた     の。駅裏の。だいぶ楽になったよ。」

「あぁ、へぇ。楽になったか、よかったな。」

テレビに目を向けながら、聞いているのかいないのか、とりあえず相槌だけをうっているような彼の態度に、いちいち腹を立てていたのは20年も前のこと。今となっては、彼はそういう人で、私もこういう人だから、とサッパリとしたお互いのコミニュケーションは楽ちんでしかない。私と彼が生活を共にするには、そのくらいサラサラとしていた方が、上手くいくことを、リズムとして悟っている。

「お先にー」

ほとんど裸んぼうで、バスタオルに包まった三女が横切っていく。「お年頃なんだから…」なんていう小言を言うほど、私も夫もできた親ではなく、さぁて、そろそろ私のお風呂の番だとしか思っていない。

プルプルプルプル… プルプルプルプル…

と、珍しく私のスマホが鳴って、
「もしもし─」電話は、いつも一緒に仕事をしている母からだった。

母と私は、地元の昔ながらの地場産業で、陶磁器製品に手作業で絵付をしている。大量に印刷機で印刷される転写シートを、マグカップやお皿やどんぶりやらの器一つ一つに、手作業で貼り付けていくのだ。シワができたり、チリやホコリが入らないよう、そして1mmのズレや歪みのないよう、丁寧な仕事を要される。だが、なにせ地味な仕事だ。

以前、友達とランチへ行ったお店で出てきた食器についた店名のロゴや絵柄を、
「これってね、手作業でつけてるんだよ?」
と話すと、
「え?印刷じゃないの?機械でやってたりするんだと思ってた。」
「絵柄は印刷なんだけど、その印刷されたシートを一つ一つ、手作業で貼り付けてるんだよ。そういう仕事してるの、私。」
「え。すご。一個一個!?ずっと?」
「一個一個、ずっと。」
「そうなんだ…意外と地味な仕事してるんだね。なんかもっと華やかな仕事してるのかと思ってた。化粧品とか美容系とか。」
「悪かったね、地味で。」
笑ってそんな会話をしたけれど、「地味な仕事」というフレーズは、あれからずっと私の奥の奥の方で、風に飛んで電線にひっかかってしまったカイトのように、風が吹いてもハタハタとうるさく取れずにいた。


その昔、外国への貿易が盛んだった時代のこの地域では、大きな製陶工場が4つもあり、軒並み近所の主婦たちは、内職さんとして絵付け作業をしていたものだけれど。時代は変わり貿易も廃れ、大きな工場は一つまた一つと閉鎖していった。産業の活気の衰退と比例して、過疎化、高齢化が進み、ここはただの田舎町となり、後継者もおらず、今では数少ない伝統技術後継者として細々と生き残っているというのが、うちの工房だ。

まわりは大型ショッピングモールやアウトレットモールができ、ママ友たちはみんな、新しくて綺麗で華やかな職場へパートに出ている。オシャレな職場へオシャレな服を着て、時給で働くことに、正直憧れがないわけではない。だけれど、母の背中を見て育った私はやはり「職人」への憧れもまた強かった。変わり者と言われればそうかもしれない。時代遅れなのかもしれない。風もないのにあのカイトがハタハタと音を立てる。

「マイスターズの社長さんがね、嬉しいこと言って下さったから、伝えておきたくて!」
電話口で、母は興奮していた。

小さな箸置きの絵付けの発注をうけているマイスターズさんは、老舗の陶器メーカーさんで、息子さんの代になってからも時代に合わせた製品展開が当たり、近ごろ発注がうなぎ上りだ。インバウンド向けの日本らしい小物製品がバズっているという。

「請け負ったこの間の箸置きね。位置がズレないように一つ一つしるししてやったでしょう?それを『これがプロの仕事だ!』って社員さんたちに話したんだって。いくら小さな物でも、手を抜かない丁寧な仕事をする。これぞ職人の仕事なんだ、って言ってくださったの!」

「わぁ…うん、それは嬉しいね!」

母はひとしきり嬉しそうに話し、いつものように慌ただしく要件を伝えるだけ伝えて、「じゃ」とプツンと電話は切れた。

「これぞ職人の仕事」「プロの仕事」

一つ一つの工賃単価はすずめの涙ほどの金額だけれど、賃金に関わらず「丁寧な仕事をする」と徹底した工房のスタイルを褒めてくださったことに、胸が熱くなり、じわっと視界が歪んだ。

よりみち接骨院でコータ先生が私の肩から外した、あの銀色のトレイに並べられた、花柄のマグカップ、ペンギンの小さな箸置きが思い浮かぶ。

間違ってなかったんだ…。

「地味な仕事」だと卑屈にならず、きちんとした丁寧な仕事を続けていくこと、時代遅れだろうと手を抜かない仕事をしていくこと、それでいいんだと、スーッと視界が開け、背筋の伸びる気がした。
大丈夫、私は、間違ってなかった。

「どうした?」
と、テレビを見ていた夫は、不思議そうに振り返る。

「うん、褒めてもらえちゃった。
 『職人』だってさ。よかった。」

ジワっと滲んだ涙を拭い、鼻水をすすりながら答え、照れ隠しに、
「さぁてと。お風呂はいってくるねー!」
と言って。

タイミングよくでお風呂から出てきた次女も、豪快にバスタオルで体を拭きながら、
「え、なに?なに?
  ママ、なんでそんな嬉しそうなの?」
とキョトンとするから答えた。

「ちょっと褒められちゃっただけ 」

スルリと裸んぼうになり、ザーッと勢いよくシャワーを浴びて、真っ赤なボトルの椿のシャンプーをワシワシと泡立てて、好きな香りに包まれる。

コータ先生は何も言わなかったけれど、あのマグカップも、箸置きも、両手で丁寧に扱う所作からもう、伝わってきていた。どんな仕事であっても、それぞれの仕事へのリスペクトを。

ボディソープを泡立てて、耳の後ろも首も肩もクルクルと洗っていく。

それにしても、
何度触って確かめてみても、私の身体には何もついていなかった。ましてや、肩からマグカップや箸置きが外れた痕跡も何にもなく、鎖骨も耳も腰も観察してみたけれど、なにも変わったところは見られない。

空中からフワッと何かを取り出す手品師みたいな要領だったのだろうか。けれど、確かに私の肩はスッキリと軽くなり、なんだか気持ちまで柔らかくなったのを実感していた。ちょうどいい風のタイミングに、フワッと空を舞い、あれだけしつこくひっかかっていたカイトが、吹き飛ばされていくのを感じた。

今日は久しぶりによく眠れそうだ。
薬を飲まなければいけないほどでは、もう、なくなったけれど、ひどい肩凝りのせいで、近ごろはあまり眠れた気がしていなかったから。

両耳からの、あの錠剤の数々…。
あんなに飲んでいたころ。

白い錠剤は、リスミーやハルシオンなどの睡眠導入剤や睡眠薬で、眠れない日々が続いて、すがるように飲んでいた。飲まなければ眠れない、精神的にきっと依存していたのだと思う。

オレンジ色をした小さな三角の錠剤は、抗不安薬。糖衣錠でほんのり甘い小さなお薬。病名などつかなくても、素直に症状を訴えたら行きつけの内科の先生が処方してくださったものだ。町医者として頼りにしていた瀬名医院の先生は、「僕は医者に向いてないんだよ」と言って、人の痛がる注射やインフルエンザの検査をするのも嫌がる、優しい先生だ。

青と白のダルメートというカプセルを出してもらうこともあった。夜になるのが怖い時、必ず朝はやってくるのに、とてつもなく長い夜におののいて、震える手で目をつぶってゴクンと薬を飲んでいた。

床に散らばって、まるでなんてことないみたいにほうきで集めて片付けられたのを見ていたら、なんかもう大丈夫なんだなと腑に落ちた。

「強かったですね」

先生の言ったそれは、薬の強度ではなく、

私への労いだった。





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